衛星ミッション
科学衛星ミッションでは,その観測装置のいくつかが国際協力の下で開発されます.その中で,それぞれのミッションに国際的な研究者を加え,国際的な科学作業チームが形成されて,衛星計画の内容や,軌道投入後の観測運用計画の議論が行なわれます.宇宙惑星研究グループでは,実際の宇宙プロジェクトに積極的に携わることが可能です.科学衛星の運用にも参加できます.このページでは,宇宙惑星研究グループに所属する研究者・学生が貢献している衛星ミッションを紹介します.
Research & Initiatives
宇宙プラズマ研究系では数多くの探査衛星を打ち上げてきました。 現在は地球磁気圏尾部探査衛星の「ジオテイル(GEOTAIL)」や、オーロラ観測衛星の「あけぼの(EXOS-D)」、オーロラの撮像と粒子計測を同時に行う小型衛星「れいめい(INDEX)」が現役で活躍しており、毎日貴重な データを送ってき ています。また、火星の上層大気の研究のために打ち上げられた火星探査機「のぞみ(PLANET-B)」でも宇宙プラズマ研究系が先導的な役割を果たしました。現在は今夏打ち上げ予定の、月探査衛星「かぐや(SELENE)」による月周辺プラズマの観測が期待されています。今後は水星探査計画 「BepiColombo」における水星磁気圏探査衛星「MMO」や、次世代の磁気圏探査衛星「SCOPE」 などの計画に向けて本格的に動き出して行くことになります。
Research & Initiatives
宇宙プラズマ研究系では数多くの探査衛星を打ち上げてきました。 現在は地球磁気圏尾部探査衛星の「ジオテイル(GEOTAIL)」や、オーロラ観測衛星の「あけぼの(EXOS-D)」、オーロラの撮像と粒子計測を同時に行う小型衛星「れいめい(INDEX)」が現役で活躍しており、毎日貴重な データを送ってきています。また、火星の上層大気の研究のために打ち上げられた火星探査機「のぞみ(PLANET-B)」でも宇宙プラズマ研究系が先導的な役割を果たしました。現在は今夏打ち上げ予定の、月探査衛星「かぐや(SELENE)」による月周辺プラズマの観測が期待されています。今後は水星探査計画 「BepiColombo」における水星磁気圏探査衛星「MMO」や、次世代の磁気圏探査衛星「SCOPE」 などの計画に向けて本格的に動き出して行くことになります。
宇宙プラズマグループ @ JAXA/ISAS
追悼 鶴田浩一郎先生
鶴田先生 追悼文集
宇宙科学研究所 太陽系科学研究系編集
2021年夏( 2022年夏 WEB転記)
敬称略/掲載ASCII順
鶴田浩一郎先生を偲ぶ
富山県立大学 名誉教授
岡田敏美(おかだとしみ)
EXOS-D 衛星プロジェクトが始まる頃、鶴田先生からダブルプローブの開発を手伝ってもらえないかとのお話があり、お役に立てるのであれば使ってくださいとお答えしました。それ以来、電場チームに加えていただき、GEOTAILのダブルプローブの開発にも携わることになりました。特に GEOTAIL用のダブル/シングルプローブの開発は国内で前例がないため試行錯誤の連続でしたが、鶴田先生をはじめ精鋭メンバーのグループによるアシストもあって期限内に完成させることが できました。磁気圏でのプローブ観測が多くの成果を上げることができたのは、正に鶴田先生のご指導の賜物であります。
鶴田先生は定年退職された後、カナダでオーロラ観測を楽しまれたようですが、間もなく宇宙科学研究所の所長(当時は本部長)に就任されました(2003年)。オーロラのビデオを見せていただければと思い研究所を訪問したところ、「ヤー」と手挙げて広い居室に迎えてくださいました。そして、立派な成果を挙げた EXOS-D 及び GEOTAIL 衛星の開発エピソードをはじめ、火星探査機 PLANET-Bの顚末など思いもかけないお話も伺うことができました。先生のお手伝いをさせていただく中で、「オリジナルな観測装置を開発し、衛星を打ち上げ、観測し、論文を発表する」 という一連のプロセスの醍醐味を経験させて頂くことができました。

大型磁気シールドルームの前にて 右:鶴田浩一郎先生 左:筆者
写真は鶴田先生のご尽力で設置された大型磁気シールドルームの前での思い出の一枚です。完成が間近い日、穏やかな口調でスペックを話されていた先生のお姿が思い出されます。 この後、電場観測プローブシステム中で試験されていくことになったのです。鶴田先生、有難うございました。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
(ISASニュース No.479より転記)
鶴田先生の "XXしてはどうだろうか!”
宇宙科学研究所 名誉教授
加藤學(かとうまなぶ)
鶴田先生いろいろご指導ありがとうございました。
平成9年4月に宇宙科学研究所に赴任以来様々にお世話になりました。私の出身、名古屋大学理学部地球科学教室がプラズマ研究系の人々と全く交流がない固体地球科学でしたので、赴任以前は存じ上げなかったのですが、赴任後直ぐに様々な面にて大変尽力をして頂いてきたことに気づきました。もちろん第一には セレーネ(かぐや)計画の立ち上げと推進でした。
宇宙開発事業団、国立天文台 の共同ミッションであって鶴田先生の強いリーダシップと西田先生、松尾先生をはじめとする宇宙研幹部の強力な支持の元この共同ミッションはスタートできました。しかし、この年はまだ正式には発足できず、R&Dを一年やることになりました。鶴田先生は衛星搭載経験のないチームメンバーに“欧米の宇宙機関を見学して来てはどうだろうか”、と。佐々木先生、早稲田の長谷部さんと私が春山・大嶽 君らイタリア経由組とツールーズで合流、CNESの放射線研の D‘uston氏を訪問しました。次いでオランダに飛んで ESA/ESTECの Foing 氏を訪ねました。
翌日は土曜日だったので、Foing氏の車に7人ぎゅうぎゅう詰めで Noordwijkを遊山し、夕方 Foing氏の自宅へ行って家族も交えてパーティーをしました。
Foing氏の夫人は現在 DLR Executive Boardの Chairになっている Pascale Ehrenfreundさんです。次いで大西洋を横断し Washington,D.C.に夕方到着しました。ホテルには指名手配がされており、明朝 NASA本部に出頭せよというものでした。出頭しないとGSFCなど NASAのCenterへの入構を許可しないというものでした。Greenbelt から NASA/HQへ8時半に出頭し惑星探査部門の長である Pilcher氏に挨拶、セレーネ計画の概要を説明し、Prof.Tsurudaによろしくという挨拶ももらいました。
Greenbeltに取って返し、GFSCへ、Acuna氏、 Vondrak 氏にまたセレーネの説明と施設見学、翌日午前は JHUの APLを訪問し、NEARミッション運用中のCheng 氏らと懇談した。この2つの Centerでは 衛星搭載機器開発のエキスパートに会うことができました。ここで合流したメンバーも加わり、次の日大陸を横断して LosAngels へ移動、滝澤さんと合流してJPLへ。Mars Pathfinder ミッションが進行中でローバーのテストフィールドなど見ることができました。最後に実用衛星メーカーへ。製造ラインを見学し宇宙産業規模の大きいのに驚きつつ見学旅行が終了しました。私にとって初めて見るものばかり、今後を覚悟させられる経験でした。
帰国してからはミューゼスCミッションの搭載機器開発にも当たることになっていましたが、どう見てもこちらにはお金がない、と思っていたらセレーネと “込みでやってもらったらどうだろうか” と鶴田先生に言われて明星電気に伝えました。担当者はちょっとの間無言でしたが、拒否されることもなく覚悟して頂いたと理解しました。
次いで機器開発経験を積むために “観測ロケット S310-13 にモでル機器を搭載してはどうだろう か”、と。これも明星電気に “込み”でお願いすることにしました。観測器の製作、 試験だけでなく、現地内之浦での打ち上げに至る手順の習得、そこで働いている大勢の技術職員の方々と知り合いになることができました。
ここで新たなる業務が飛び込んできました。隣の小山先生にロケット打ち上げの気象班への参加を誘われました。“加藤さんは(ロケット班から)何を言われても怒らないから適任だよ”、と鶴田先生に賛同を得られました、と小山さん。私は気象 予報などは全く素人でしたが、天気図を頭の中にいつも入れている係が必要だろうと思い引き受けることにしました。これ以降定年まで MV と観測ロケットの打ち上げ業務に携わることになりました。
セレーネとミューゼス C 搭載機器の開発・試験、咬み合わせ・総合試験と進んでいく途中でも多くのことを教えて頂きました。その間鶴田先生の退官がありましたが、所長として再度宇宙研のかじ取りをしていただくことになりました。ここでも何かとご指導いただきましたが、一番記憶に残っているのはミューゼス C のリターンサンプルのキュレーション設備の開発の時でした。セレーネの初代 NASDA 側プロマネを務められた長島さんが宇宙研に異動され入札をマネージする立場につかれておられました。いきなり、電話で”あの設備の入札に XX 社だけしか応じていないが、ここで良いのか“、と。私は当初何のことかわからず、状況を掴めないでいたら ”今、鶴田先生の所にいるから所長室に来てもらえないか “
駆けつけて長島さんの説明を聞くと ”キュレーション設備のスペックが十分に提 起されていない。この設備は固体惑星の担当だと聞いたので、加藤さんに電話した“鶴田先生は ”A 君をBさんの所に丁稚奉公に行かせてはどうか“、と。早速 A 君を呼び出し、”丁稚奉公にいってきなさい、Bさんにおねがいしておくから“、 と。丁稚奉公はうまくいかず、Bさんから苦情を言われ、帰されて来てしまった。詳細なスペックを再提示しなければならないので、緊急に人選をしなければならなくなり、細かな所に気配りができ、メーカー対応にも熟練している藤村さんに登場願いました。その旨鶴田先生にお伝えしたところ ”そうしますか“ と述べ られ、いつもの”何々してはどうか“
を期待しつつ、私の提案を認めていただいたものとして詳細なスペック作りとメーカーとのすり合わせを行いました。私たちに内示されている予算とメーカーの言い値では 2倍の開きがありましたので、スペックの大幅な見直しと交渉に半年かけ、やっと設備の製作が開始できました。
クリティカルなステージで、いつも鶴田先生には助けていただきました。ありがとうございました。
鶴田浩一郎先生を偲ぶ
宇宙科学研究所 名誉教授
向井利典(むかいとしふみ)
昨年12月初め、鶴田先生の訃報を聞いた時、俄かには信じられませんでした。 ちょうど1年ほど前、鶴田先生がカナダで撮影したオーロラ画像の鑑賞会では元気な姿を見せていたからです。しかし、最期はご家族に看取られながら安らかに眠りについたとの話を聞いて少し心が休まりました。
鶴田先生とは駒場の東大宇航研時代から 50年以上に及ぶお付き合いをいただき、 いろいろな想いがありますが、1970年代後半、国際磁気圏研究の一環として EXOS-A(きょっこう)と EXOS-B(じきけん)が軌道に乗り、次の衛星計画として EXOS-D(後に、「あけぼの」)と OPEN-J(後に、GEOTAIL)の検討が始まった頃 から関係が深まりました。
1980年代半ば、GEOTAILは米国 NASAとの大型国際 共同ミッションとしてプロジェクト化したわけですが、その最初の頃、西田篤弘先生の計らいで鶴田先生に連れられて米国の主なプラズマ観測の研究者を訪問する事になりました。二人ともまだ若かったですが、それは大変な強行軍でした。 夜遅く到着した翌日に研究所に行って議論をし、翌日にその続きをこなして直ぐ に次の訪問地に向かう飛行機に乗って夜中に到着という事を 2 週間ほど続けたのでした。夜、ホテルに着いて直ぐに寝付けないので、私はウイスキー、鶴田先生はコーヒーを飲みながら話をした事を懐かしく思い出します。一方、私は、アメリカの著名な研究者との議論を通して、日本で独自に開発してきた観測技術が世 界的にも引けを取らないように感じたのは大きな成果でした。その後、彼らは私 の言う事を信頼してくれるようになり、GEOTAIL の成功に繋がったと思います。

(写真)若かりし頃(中年?)の鶴田先生(右)と筆者。宇宙研が相模原に移転後、太陽系プラズマ研究系の Tea time のひとこま。昔は余裕があったのでしょうか?(ISAS ニュース No.479 より転載)
その後も鶴田先生にはいろんな場面で助けていただき、また別の場面ではサポート役をしましたが、鶴田先生は基本的な原理原則に則って筋を通す(あるいは、拘る)というところがありました。
それは自然現象や物理の議論にも表れ、例えば、 宇宙空間の電場計測に荷電粒子を使ったブーメラン法など、独特のアイディアが生まれたと思います。また、衛星ミッションの将来計画についても同様な思考方 法の延長線上で広い視点から考えるという姿勢でした。例えば、1985年6月、 小惑星サンプルリターン小研究会を主宰しています。川口淳一郎さんは、 MUSES-C 計画の発端はこの小研究会だったと述べています。
心からご冥福をお祈りいたします。
鶴田さんとオーロラ
東京大学 名誉教授
國分 征(こくぶんすすむ)
15年程前のことだが、秋葉原の電気街で鶴田さんとばったり出会ったことがあった。私は、マイコン関連の何かを買いに行った時だったと思うが、鶴田さんは、何か電子部品を探しているようだった。のちに聞いたところによると、オーロラを観測するためカナダに何回か行ったとのこと、このオーロラ観測のための計器作りの部品探しだったようだった。退職後に私的にオーロラ観測に出かける動機は何だったのか、いろいろ思い出してみると思い当たる節がある。
40年前、カナダマニトバ州でオーロラや VLF電波の観測を共にしたことがあり、脈動オーロラの光度増と共に VLFエミッションが出現するデータが取れた。その時の興奮状態を思い起こすと、この動機がわかるような気がする。
鶴田さんとは、大学院生だった頃から VLF 観測との関わりで観測器作りなど仕事を共にした。
1964~65年、太陽活動が静かな時期にIQSY (International Quiet Sun Year)という国際協同観測事業があった。このとき 京都大学の電離層研究施設と東京大学の地球物理研究施設にホイッスラー観測のための予算がついた。私は学生だったので、予算が決るまで知らなかったが、故 小口高教授が計画を進めていた。
63年度に予算が決り、64年の1月1日から定常観測に入るための準備が始まった。修士課程に入ったばかりの鶴田さんの手伝いといった形で私も仲間に入り、半田鏝!を握ることになった。小口先生、鶴 田さん、私も含めて当時の言葉でいえばラジオ少年の出身?の、云わばアマチュアの集団で新しい観測の準備を始めたのである。当時、小口先生は、京大工学部の偉い先生から工学的には、いわば素人同然の理学部で VLF観測をやるのは、大丈夫かと危ぶまれたといっていた。
1963年の12月20日頃だったと思うが、私は博士論文を提出するとすぐ、 茨城県柿岡の観測所に行き、鶴田さんと受信機作りに悪戦苦闘をしたことは今では懐かしい思い出である。
アンテナの下におく前置増幅器の真空管ヒーターの配線ミスで6.3Vのところに12.6Vがかかっていた。そのため真空管カソード のエミッションの低下がおき、すぐに感度が悪くなってしまうことに気づかず、 感度が足りないと真空管回路を増設したりして、アンテナとの間を何回も往復したことがあった。このミスに気がつき、正常な配線の増幅器を取り付けるとすぐ にホイッスラーが受信され、それまでの疲れが飛んでしまったことは、鶴田さんと共に味わった実験観測屋としての最初の経験だった。
その後、鶴田さんは実時間スペクトル解析器の製作という難題に挑み、数十チャンネルフィルターバンク以外はほとんど手作りで解析器を完成させた。当時、 可聴周波数帯のスペクトル解析に使われていたのは、通称ソナグラフという、数 秒間の記録の解析に数分以上かかるという代物だった。また、鶴田さんは独特の アイディアでホイッスラーモード波の方向探知可能な受信装置の開発し、スタンフォード大学が南極 Siple基地に設置した VLF発生装置から発射した電波(ホイッスラーモード波)を磁気共役点のカナダで受信する国際共同研究計画を立案・ 実施し、80年代にカナダで多点観測を実施した。この頃、小口先生は、グローバルオーロラ動態観測を目指した計画をたてていて、その一環として80年1- 2月にカナダの研究者が企画したロケットによる脈動型オーロラの観測に参加することになった。
この時日本から参加したメンバーは、小口、鶴田、林幹治(故人)、町田忍(前宇宙地球環境研究所所長)と私の5名と、この他、北村、坂 (九大)の2名で、全天 TVカメラによるオーロラ観測に加えて、VLF及び ULFの多点観測を行った。私は、サスカチュワン州の北の端にあるウラニュウム鉱山 の宿舎に泊めてもらい、従業員専用の飛行場の建物を借りて観測を行ったが、鶴田さんはサスカチュワン大学の観測所での観測担当だったかと思う。
このキャンペーン期間中、月が出ている時は、ロケットを打ち上げないないとのことで、満月を挟んで2週間ほどは休むことになった。地元のカナダの研究者 は、各自自分の家に帰れるが、我々外国人は、帰るわけにもいかず可能な限り観測を続けることなり、私はサスカチュワン大学のあるサスカツーンの町に戻り大 学の観測所に通うこととなった。
月夜であってもできるだけデータを取ろうということで、中華料理屋で夕食を取った後、毎晩凍った道路に車を走らせ、鶴田さんと郊外の観測所に通った。この時は粘ったかいがあり、好運に恵まれた。とはいっても、粘ったのは我々ではなく、小口先生だった。
1月28日の早朝、月は沈んだが、雲があるので観測を終えようとしていたとき、200kmほど北方のラロンジュで観測していた小口先生からの電話がなった。雲が切れだしオーロラが出ているという電話だった。電話を受けた後観測を再開しTV画面を注視していると、 VL電波と同期したパッチ状の脈動オーロラが観測されたのである。VLFエミッションのバーストにともなって、天頂近くのオーロラ光度が増加するデータが取れたのである。これは、テレビカメラで初めて捉えた VLFエミッションと相関を持つオーロラ光度増加のデータであった。また、VLFエミッションの発生と関連 する ULF帯のインパルス変動があることに気づいたことも、この日のデータからだった。小口先生からの連絡がなければ、この千載一遇のチャンスを逸することになったであろう。小口先生には、実験観測屋の冥利につきる現場での新しい発見を、鶴田さんとともに味わわせてもらったのである。こうした経験から、鶴田さんは退職後もたびたびカナダは出かけ、オーロラの 観測を楽しんでいたのではないかと思うが、残念ながらその話を聞く機会がなかった。
Geotail 衛星以来、20数年ぶりに磁気圏観測衛星「あらせ」が打ち上げら れ、その主要な観測目的の一つとして波動粒子相互作用があり、ホイッスラーモード波による粒子降下に伴う脈動オーロラ励起の直接的エビデンスが得られてい るようだが、脈動オーロラとホイッスラーモード波との関連について、鶴田さん の先駆的な論文があることを思い出し、この一文をしたためた次第である。参考 までに、関連論文を挙げておく。
Turuda, et., al., Correlation between the very low frequency chorus and pulsating aurora observed by low-light-level television at L=4.4. Can. J. Phys., 59, 1042(1981).
Kokubun, et., al. Correlation between very low frequency chorus and impulsive magnetic variations at L~ 4.5., Can. J. Phys., 59, 1034(1981).
月探査「かぐや」プロジェクトの立ち上げ
宇宙科学研究所 名誉教授
佐々木 進(ささきすすむ)
鶴田浩一郎先生には、月探査ミッション「かぐや」で長い間ご指導いただきまし た。1995年に鶴田先生から「NASDA(宇宙開発事業団)、天文台と共同で立ち上げる月探査計画は面白いよ」とのお話をいただいたのが発端です。
宇宙研とNASDAは同じ宇宙分野の機関とは言え、設立目的も文化も大きく異な る組織による共同プロジェクトでしたので、当初の数年は機関間の深い溝を埋めながらの大型事業の立上げという舵取りの大変難しい状況となりました。プロジェクトの進め方や責任分担等で折り合いのつけづらい問題が次々と発生しましたが、デッドロックに至らずプロジェクトが無事立ち上がったのは、宇宙研側のリーダーを務められた鶴田先生の温厚かつ決然とした指導があったからだと思いま す。
小さいことには拍子抜けするほど妥協されていましたが、大きいことには決して妥協されませんでした。「それはちょっと違うんじゃないの」、「こう考えるのはどうだろう」、の硬、軟の組み合わせで私たちを絶妙にリードされました。 NASDA 側のプロジェクト責任者の意見も十分理解し尊重されていましたので、 NASDA のメンバーからも高い信頼を得られていました。
歴史に「もし」はあり ませんが、鶴田先生がいらっしゃらなければこの共同プロジェクトは立ち上がることが難しかったのではないかと思います。「かぐや」を立ち上げた方々の一部 はすでにお亡くなりになっています。
煌々とした月を見上げる時、これらの方々のお顔がふと思い浮かぶことがあるのですが、これからは鶴田先生のお顔も感謝の念とともに思い浮かぶものと思います。
(ISAS ニュース No.479 より転載)
鶴田先生の5つの思い出
宇宙科学研究所
齋藤義文(さいとうよしふみ)
私は、宇宙科学研究所には1989年の夏からお世話になっています。宇宙研に来て最初に携わったのが観測ロケット実験 S-520-12号機の搭載観測装置の準備でした。S-520-12号機観測ロケットは鶴田先生が実験主任をされていましたが、とにかく宇宙研の毎日は時間の進み方がそれまでに学生生活を送っていた京都よりははるかに早く、毎日の実験と観測ロケットの準備に向けた作業で精一杯でそれ以外の記憶があまりありません。鶴田先生について、特に印象に残っている事も、実は宇宙研外での出来事の方が多いことに気付いて驚いているところです。その記憶を辿ってみると5つ思い出すことがあります。
1つ目は、Geotail 衛星が打ち上がった後、当時博士論文のテーマとして期待していたLEPが放電事故で1年程度の間観測を停止していた頃のことです。博士論文のテーマとして解析しようと考えていたLEP のデータが得られないということになり、EFD-Bのアナライザーで得られたデータの解析をしてみてはどうかという話になりました。その際に、鶴田先生からEFDのお話を伺ったことがどういう訳か記憶に残っています。
2つ目は、Geotail衛星のLEPが復活して、Key Parameterデータを生成するためのソフトウェアを、Goddard Space Flight Centerに作りに行った際の記憶です。私は Laurelにある EconoLodgeに滞在していたのですが、ある日何処かで見たことのある人がいるなと思ってよく見てみたら鶴田先生と中谷先生でした。「のぞみ」に搭載する中性粒子の質量分析器に関することで、来られたそうでしたが、宿が一緒になるということは知らず、突然お会いして驚きました。夕食を一緒に食べに行くということになり、近くのステーキ屋にご一緒させていただいたのですが、 その夕食をご馳走になったのを覚えています。
3つ目は、のぞみの衛星に関してです。鶴田先生と山本達人先生が部屋で何かを前に話されているのを見かけました。よくよく見てみると、トラス構造を模擬した棒とタンクを模擬した丸いボール (だったと思います)で作られた衛星の模型でした。のぞみの模型だという話を聞いて、衛星の形はこうやって決めるのだと感動した覚えがあります。
4つ目は、 のぞみの打ち上げの際に、内之浦で鶴田先生と同じ部屋になった際のことです。1日だけだったと思いますが、私は恐れ多く緊張していた記憶があります。そのような私の様子を見てか、鶴田先生は優しく話しかけてくれました。その時、鶴田先生は Zaurusで電子書籍を読んでおられたのですが、その頃既に電子書籍を使っておられたのには驚きました。
5つ目は、かぐや衛星に関する記憶です。私はプラズマ観測装置をかぐや衛星に搭載すべく装置の開発を進めていました。元もとの計画では米国と分担して、イオンの質量分析器を開発し質量分析器2台を 搭載する予定だったのですが、米国側で装置を作るお金が取れず、日本独自で開発を進めることになりました。その際に、1台を質量分析器からエネルギー分析器に変えるということを決めたため、そのことについて衛星システムに説明せよということになりました。その説明する相手に鶴田先生がおられたのですが、私はこの時も緊張して今となっては何を話したのか、何を聞かれたのかはっきりとは覚えていません。ただ、鶴田先生はその時も大変穏やかだったという記憶があります。
鶴田先生に関して私の印象に残っている断片的な出来事を並べてみました。私にとって鶴田先生は大変大きな、面と向かうと緊張してしまうような方でした。でも記憶に残っている印象はどれも優しい方であったということばかりです。
鶴田先生有り難うございました。
鶴田先生 ありがとうございました
宇宙科学研究所OB
山川宏(やまかわひろし)
温厚という言葉がぴたりと当てはまる先生でした。
最初にご指導頂いたのは、私が、火星探査機「のぞみ」の飛行計画の検討メンバーの一人だった時だと思います。その後、金星探査機「あかつき」や水星探査計画 BepiColombo の実現に向けた議論を通して、日本の今後の宇宙科学ビジョンについても視野を広げて下さったことを記憶しております。
研究者が研究者マインドを持つことは当然として、全体の発展を考えた戦略的アプローチをすることの重要性を学びました。また、何度か霞が関界隈に同行したり、偶然お会いしたりしたことがありましたが、そのお考えを有言実行すべく 努力されているお姿も拝見しておりました。
ただ、何と言っても、最もご一緒した時間が長かったのは、内之浦宇宙空間観測所のコントロールセンターにおいてでした。当時、私の仕事の三分の一は、様々な衛星プロジェクトの計画立案、三分の一は、内之浦におけるロケットの打上げや能代ロケット実験場におけるロケット開発、そして、残りの三分の一は、JAXA 内外との調整でした。内之浦では、事前のロケット飛行解析、打上げ時の予測風 に基づく飛行計画の最適化、高層風観測に基づく打上げ可否判断、リアルタイムロケット誘導に携わっておりましたが、風など気象は全く専門外でした。
そこで 打上げがある度に、鶴田先生に高層風や雷予報などの気象の原理をご教授頂きつつ、気が付くと、宇宙科学全体を考えることの重要性を、その温厚な語り口で話しておられました。私にとって、本当に極めて貴重な時間となりました。
鶴田先生、ありがとうございました。
(ISASニュースNo.479より転記)

2005 年 7 月 内之浦宇宙空間観測所のコントロールセンターにて
前列右側 平尾邦雄名誉教授、前列左側が鶴田浩一郎名誉教授
後列右から、林友直名誉教授、石井信明教授、中村正人教授、加藤學名誉教 授、山川宏
鶴田さんの思い出
東京大学宇宙線研究所 名誉教授
寺澤敏夫(てらさわとしお)
私が宇宙研(現 ISAS、当時は東大宇宙航空研究所)の大林・西田研究室の修士の院生となったのは 1973年のことでした。そのころ、鶴田先生は西田研の助手をされており、そこで初めてお目にかかりました。(当時の雰囲気に戻って「鶴田さん」と呼ばせていただきます。)
それから 40年近くに渡って鶴田さんにはさまざまな場面を通じお世話になってきましたが、いざ「思い出」を書こうとすると、目に浮かんでくるのは70年代 から80年代にかけてのあれこれです。
実は、鶴田さんのお名前を最初に知ったのは、直接お会いする2,3年前、科学雑誌(たしか岩波の「科学」)に載った磁気圏の紹介記事の著者(前沢さんと共著)としてでした。その記事や、そのころ出版された大林先生の教科書を眺め、 新分野として急速に発展しつつあった磁気圏物理学・宇宙空間物理学の時代の息吹を感じたものでした。
上の共著にも見られるように、鶴田さんと前沢さんは普段の研究室の議論でも名コンビでした。何か新しいアイデアがあると、まず鶴田さん、前沢さんに披露して反論をいただき問題点を洗い出すのが、失礼ながら、当時の私の「研究手法」でした。
そして、現在に比べればずっと雑用の少なかった当時、大林・西田研究室のセミナーでは、殆ど時間を忘れて議論に没頭しましたが、大先生方、鶴田さん、前沢さん、それに後に極地研に移られた江尻さんを始めとする研究室の面々は論客として相当に手強く、如何に彼らを納得させる論理を構築するか、それが研究室セミナーにおける私の最大の目標であった覚えが あります。
そうして、宇宙研での5年間の修士・博士課程を終え、私は宇宙科学をテーマとする学振 PDとなりました。当時の PDは現在と少し仕組みが違い、自分の個人研究以外に、関連プロジェクトでの役割分担が求められていました。そこで、私はその役割として、そのころ、鶴田さんが主宰されていたホイスラー波多地点観測 キャンペーン・プロジェクトへの協力を選びました。このプロジェクトは、アナログ記録システムが主流の当時、いかにして長時間安定したデータ取得を実現させるか、また記録系をどのように地上多地点に展開するかなど、鶴田さんの面目躍如としたアイデアに溢れたものでありました。
私がメインとしていた理論的研究とは大いに毛色が違う内容であり、面白がって VLF用アンテナ製作やカナダ現地で多地点の観測などのお手伝いをしたものです。このプロジェクトの成果はのちに町田さん、池田さんの博士論文として結実しています。
80年代に入るころ、鶴田さんは西田研から独立して鶴田研究室を構えられ、衛星搭載用の電場計測技術の開発に多忙となられましたが、隣の平尾研の向井さんを加え磁気圏研究の大グループとしての一体感は維持されていました。(柳澤さん、 早川さん、羽田さん、星野さん、渡部さん、中村(正人)さんと多くの新メンバーがグループに加わったのはこのころ)
一方、私は80年代半ばに宇宙研を離れて京大に転出し、少し鶴田さんと顔を合わせる頻度が減りましたが、たまに機会があると70 年代の雰囲気に戻って大いに議論を交わしたものでした。
こうして振り返ると、私の研究者としての出発には、多くの場合に鶴田さんの厳しいながら温かい眼差しに助けていただいたことを改めて思い出します。
鶴田さん、やすらかにおやすみ下さい。
鶴田浩一郎先生を深く偲んで
宇宙科学研究所
春山純一(はるやまじゅんいち)
私は、修士1年から宇宙研で研究することになりました。鶴田先生には、それ以来、様々にお世話になりました。
京大大学院に進学した直後、私は指導教官の寺沢敏夫先生に「宇宙研の河島信樹先生のところでボエジャー2 号のオカルテーション観測の研究をしませんか?」 と言われ、その後、ドタバタと宇宙研に来ることになったのです。宇宙研に来ると、大学院講義が受けられないので、西田篤弘先生、向井利典先生、鶴田先生と いった業界の大物がおられるプラズマ系のセミナーに参加させて頂きました。
セミナーには外部からトップクラスの研究者達が発表に来られ、非常に活発でした。助手に成り立ての早川基さんら若手教職他、中川朋子さん、藤本正樹さん、 平原聖文さんらが博士課程学生としていて、教授だろうとなんだろうとガンガンに議論を挑んでいました。もちろん、鶴田先生らもやり返します。そして何より、鶴田先生らを素晴らしいと思ったのは、学生であってもよい意見には耳を傾けること、あるいは私のような修士学生の初歩的な質問を更に発展させて、より高度な議論に昇華していただけることでした。鶴田先生にある時、「春山君は、いつも、いい質問をするね」と仰っていただきました。学生へのリップサービス だったかもしれませんが、私にはそれがとても自信になりました。
私は博士過程に進学すると、Lunar-A をされていた水谷仁先生の固体惑星研究グループに所属したため、プラズマ系のセミナーにはあまり参加しなくなりましたが、その後しばらくして、鶴田先生とは、再び深い関係を持つようになります。 それは、月探査 SELENE(かぐや)計画においてです。私は、博士号を取得した後、アメリカに一時研究の場を得たものの、すぐに帰国し、旧宇宙開発事業団 (NASDA)で、宇宙研と、月探査の立ち上げをすることになりました、そのときの、宇宙研の代表的な存在が鶴田先生でした。当初、共同での月探査の立ち上げには、両機関の背景などもあり大きな壁がありました。しかし、鶴田先生と、事業団での私の上司であった長嶋隆一さんとの間に緊密な信頼関係が構築され、月 探査計画は SELENE 計画として始動したのです。鶴田先生だからこそ、SELENE 計画が立ち上がったと言えるかと思います。
私は SELENE 計画では、搭載機器の一つである地形カメラの主責任研究者 (Principal Investigator: PI)をさせていただくことになりました。宇宙研時代 はプロジェクトで開発にあたることは無かったこともあって、宇宙研の先生方や 先輩方からは、「春山などに機器開発はできない」といったことを言われました。 実際、開発は順風満帆とはいかないものでした。常に不具合の連続でした。二ヶ月に一回ある、(今でも名称を覚えていて、夢にまでみる)「開発調整会議」は 針の筵でした。この会議は、偉い先生方が一列目に陣取り、機器担当者が、開発状況を報告するというものです。その中で、一番眼光鋭く話しをお聞きになり、 舌鋒鋭く質問コメントされるのが、鶴田先生でした。私が学生時代に存じ上げていた温和な先生という印象とは全く異なるものでした。正直、鶴田先生は怖く、 SELENE の開発中は、私には言葉をかけるのさえ憚られるような存在になりまし た。しかし、開発も進んだ頃、ある時、長嶋さんが「鶴田先生が、『春山君は、PIらしい顔つきになったね』と言っていたよ」と教えてくれたのです。その言葉は、私の人生において、最も誇れる褒め言葉の一つとなりました。SELENEは、2007年に無事打ちあがりました。そして、約一ヶ月して、私が開発担当したカメラのファーストライトを得ました。素晴らしいものでした。そしてそのファーストライトの時に思ったのは、「よし、これで色々と研究するぞ」 ではなく、「(ホッ)よかった。これで鶴田先生に怒られないで済む」でした。
SELENE 搭載のカメラで、様々な発見ができました。その一つに、月の縦孔の発見があります。月には溶岩が流れる際に地下に空洞構造「溶岩チューブ」が形成されると言われていました。しかし、その入り口となる穴は見つかっていませんでした。私たちは、溶岩チューブに開いたと思われる「縦孔」を発見したのです。 溶岩チューブは、溶岩平原の形成にとって重要な因子であり、加えて地下という 隕石衝突などによる変化を免れてきた環境において月内部情報をふんだんに持つ場所で、まさに科学にとって宝の洞窟です。また、放射線や隕石、温度の大きな 変化からも免れるという点で、これから人類が月へ本格的に進出していくための基地建設候補地として最高の場所です。
縦孔の発見の直後に、宇宙研の廊下を歩いてこられる鶴田先生に出くわしました。そのときには鶴田先生は既に、退職されていましたが、お元気そうでした。そこで、もしお時間があれば、ということで私の部屋にお入りいただき、縦孔の画像をお見せする機会を得ました。そこで、 縦孔の発見が広げるであろう惑星科学の未来、そして基地建設による人類の未来を語りました。一人で熱く語っている私を、穏やかに見てくれた鶴田先生は、私 が学生時代に優しく接してくれたあの鶴田先生でした。色々とお話をさせていただきました。そして、最後部屋を出るとき「これは、本当に異次元に続く孔だね」「春山君、是非、探査しなさい」と仰ってくださりました。その言葉を胸に、現在、多くの仲間たちと、UZUME と名付けた縦孔探査計画を立ち上げようとしているところです。
鶴田先生との思い出は、ここで語ったことなどほんの一部です。鶴田先生には、 多くの教えを頂きました。本当にありがとうございました。先生のような研究者、 指導者になることをこれからも目指していきたいと思っています。
先生のご冥福 をお祈り申し上げます。
鶴田先生を偲んで
東北大学大学院 理学研究科
小原隆博(おばらたかひろ)
鶴田先生におかれましては、2020年12月3日、83歳にてご逝去になられました。謹んで、ご冥福をお祈り申し上げます。
私は、東北大学大学院を終了後、1986年に宇宙科学研究所に就職し、1996年まで在職いたしましたが、宇宙研での主たる任務は第12号 EXOS-D(あけぼの)の開発・運用・データ処理でした。 鶴田先生はあけぼの衛星の責任者でしたので、私は鶴田先生のもとで現場の仕事をした事になります。製作、組み上げ、環境試験、そして運用とデータ処理と、一通りあけぼの衛星に携わりました。
1989年2月に鹿児島県内之浦から打ち上げられ、オーロラ電子の加速、オーロラ現象の出現と発達過程を、26年間に渡り観測しました。
鶴田先生の最初の思い出は、衛星の遠隔運用でした。時代は高速ネットワーク時代を迎えていましたので、衛星運用も相模原キャンパスからの遠隔運用にシフトできないかと考えました。それまでは交代で内之浦の宇宙空間観測所に行っての衛星運用でした。
鶴田先生は私の提案を後押ししてくださり、まず自分で試してみてくださいと言われました。1か月間試験運用を行ってみて、 鶴田先生に結果を報告しました。 非常に慎重に、いろいろな場合を想定しバックアップ策も示して下さいました。 そして、更に試験運用を続け安全が確認できた上で、運用会議にて承認を受けて遠隔運用ができました (JGG,42(4),1990).
あけぼの衛星の観測データを、リアルタイムで運用管制室に表示し、オーロラの状況に応じて、最も適した観測のやり方にすぐに変更できるようにしたのも鶴田先生との相談の結果でした(JGG,42(4),1990). その際、鶴田先生は、カナダでのオーロラの地上観測の状況を話して下さいました。オーロラの発達を予測して観測のパラメータを変えることもしばしばだったとの事です。リアルタイムで観測データを表示する重要性を確認して、後押しして下さったと思います。
あけぼの衛星の運用では、海外局も用いました。カナダのプリンスアルバート局もその一つで、先生に連れられて、多数回カナダに行きました。鶴田先生は長くカナダ でオーロラ観測を行っておられましたので、多くの友人(研究者)がおられました。その一人のウエーレン先生は、カナダを代表する研究者で、あけぼの衛星にイオン質量分析器を搭載されました.。
宇宙研とカナダ宇宙機関(CSA)は、共同研究協定を結び、国際協力であけぼのプロジェクトを進めていました。そのような背景があって、カナダとの共同研究はスムーズに進みました。当初の設計寿命をはるかに超えて数年が経たころです。 鶴田先生から、カナダに行って交渉してきてくれないかと言われました。 聞けば、プリンスアルバート局でのあけぼの衛星の受信継続が難し くなってきたとのことでした。ウエーレン先生のところのヤウ博士に同行をお願いし、オタワのCSA本部に行きました。
ヤウ博士には、あけぼの衛星の運用の現場で協力して頂き、鶴田先生と特に親しい間柄でした。ヤウ博士のサポートを頂き、CSA のケンドール部長(当時)と協議を行いました。
その結果、プリンスアルバート局でのあけぼの衛星の受信は継続されました。この背景には、鶴田先生がカナダ宇宙機関のトップと交渉を重ねていた事がありました。 先生は、こうした局面でも諦めずに事にあたる人でした。
私は、1997年から郵政省宇宙環境センターに移り、宇宙放射線予報を始めましたが、当時、世界の衛星の多くは、バンアレン帯電子や太陽プロトンの襲来で故障が続いていました。磁気嵐回復相でのオーロラ活動の増大がバンアレン帯の電子の急増に到るらしい事は、あけぼの衛星の運用を通じ体験していました。しかし、あけぼの衛星においては、鶴田先生が万全な放射線対策を施していましたので大きな影響は受けずに済みました。ここでも、念には念を入れる鶴田先生の姿を感じた次第です。
鶴田先生は、私が宇宙天気予報に転身した後も、さらに、宇宙環境センターからJAXA筑波宇宙センターに移り宇宙放射線環境計測を実施した時も、継続して激励下さいました。JAXAにて、実用衛星やISSに放射線計測装置を搭載し、宇宙放射線環境の連続観測を行った時、宇宙科学研究所でのあけぼの衛星での経験が常に私の脳裏にありました。
鶴田先生の穏やかに話される姿の後ろには、非常に厳しく物事を見る目がありました。
私は東北大学の恩師のお陰で、あけぼの衛星にコミットさせて頂きました。あけぼの衛星プロジェクトに参加出来て、大変有難く思っていますが、とても嬉しく感じたのは、宇宙を開拓する本物の研究者に触れる事が出来た事でした。
鶴田先生は、宇宙科学研究所にて多くの人を育て、宇宙研究を更に進められました。
鶴田先生のご冥福を、あらためてお祈り申しあげます。(2021年3月末 記)
鶴田先生のご逝去をいたむ
アジア宇宙環境研究機構
小山孝一郎(おやまこういちろう)
―ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人と すみかと、またかくのごとし - 方丈記冒頭
宇宙科学研究所がまだ駒場にあったころ、7階建ての49号館、5階には当時大林先生、平尾先生、伊藤先生の研究室がありました。西田先生が来られたのはもう少し後だったと記憶しております。
鶴田先生は当時助手。理学部出身にしては珍しく(?)半田ごてを握りVLF受信器の回路を作っておられました。雷雲の接近を知るため、内之浦実験場のコントロールセンターに置かれていたVLF電波受信機も鶴田先生の御設計ではなかったかと思います。その後また実験場のコントロールセンターの片隅で天気予報 を担当され、ご一緒したこともありました。
また大きな 2 個の金属球を棒の先端につけて気球による電場の測定を試みられたのを記憶していています。電場の測定は先生の終生の目的であったのでしょうか、 その後衛星でビームを使う測定器の開発に至りました。
衛星で一緒に仕事させていただいたのは鶴田先生がマネジャーであられた “あけぼの”、そして火星探査機“のぞみ”でした。
私は“あけぼの”では高度約 8000Km までの熱的電子のエネルギー分布測定を担当いたしました。このような高い高度までの電子温度測定は、電極からの二次電子 が測定する電子による電流に比べて大きく、従来のDC 的な方法では測定不可能です。掃引電圧に小さな正弦波を加えて二次高調波成分のみを検出することにより世界で初めてなされたもので、“あけぼの“衛星計画の成果の一つだと思っております。火星探査機“のぞみ”には電子温度測定器、そして惑星探査には必須の電場掩蔽法による中性大気、電離圏観測のための超安定発信機を搭載させていただきました。これも世界で初めての系統的測定ができると期待しておりましたが、 途中で通信途絶という結果になりました。
鶴田先生は常に静かな語り口、控えめで、自らを宣伝することもなく、また感情の大きな揺れを示されたのを見たことは全くありませんでしたが、内面には固い意志をお持ちではないかと常々感じておりました。
鶴田先生とは定年退職されてからは年賀状だけのお付き合いでした。1月にいただいた奥様からの葉書は先生の御逝去のお知らせでした。駒場では同じ建物の7階に居られた小田先生、5階におられた大林、平尾先生、伊藤先生に続いて、古き良き宇宙研時代をささえた理学系の研究者がまたお一人お亡くなりになりました。寂しいことですが、これもこの世の常と諦めざるをえません。先生のご冥福を祈るばかりです。
”世の中し常かくのみとかつ知れど、痛き情(こころ)は忍びかねつも“ 大伴家持
鶴田先生の思い出
宇宙科学研究所 名誉教授
小野田淳次郎(おのだじゅんじろう)
鶴田先生とは、3機関統合の前後に最も頻繁に一緒に仕事をさせていただきましたが、最初に一緒に仕事をさせていただいたのは1990年2月のS-520-12号機 の打上げキャンペーンでした。ノルウェーの北極圏内のアンドーヤ射場から、パルセーティングオーロラと言う特殊なオーロラの中にロケットを打上げ・観測するものでした。10人余りの実験班は、半ば凍り付いた現地で発射場内の宿舎に全員寝起きし、手分けして自炊し、正に皆で同じ釜の飯を食べる生活でした。 ここからの発射は初めてだったので、現地の地上系とロケットとのインターフェイスや、ロケット機体の保温などを心配したものの、日産やNECのベテランも班員に居て、難なくクリア。3 日余で発射できる態勢を作りました。
後は毎晩、直ぐに打てる体制を維持しながら待機して、狙ったオーロラが発射方向に現れるのをひたすら待つ。遅い時には3時、4時まで待って、それでも現れなければ諦めて、安全処置や後片付けをし、宿舎に帰って眠る。これが続くと結構つらい。

アンドーヤのランチャに載せたS-520-12号機の前で(右:鶴田先生、左:筆者)
ここで鶴田先生が登場し、「今日は綺麗なオーロラが出そうだ」とオーロラ予報。暗い見せ場に連れてゆき、全天のオーロラが目まぐるしく変わるバーストを見せるなどしてストレス解消に努められる。
更に、寒さが緩んだ際に班員の一人が氷を踏み抜き骨折、100km先の病院に救急車で搬送されるなど、予期せぬ出来事もありましたが、8 回目のトライで打上げに成功しました。この間、良く班員を取り纏められていた若き日の鶴田先生のお人柄と姿が思い出されます。
ご冥福を心からお祈り します。
(ISAS ニュース No.479 より転載)
鶴田浩一郎先生を偲んで
京都大学 理学研究科
松岡彩子(まつおかあやこ)
2019年の5月にお見舞いにうかがったのが、鶴田先生にお会いした最後の機会でした。お元気そうでお過ごしのことと拝察したのですが、それから1年半後に大変悲しいお知らせを聞くこととなってしまいました。
鶴田先生に初めてお会いしたのは、大学の地球物理学科の「地球観測論」の講義でした。私は丁度、大学院ではどの研究室に行こうかと思いを巡らせていた頃だったので、大学4年生の春のことだったのだろうと思います。毎回講師の先生が変わるオムニバス形式で、鶴田先生はある回の講師として、宇宙科学研究所が行っている人工衛星を使った観測のお話をして下さいました。その中で、次の年に打ち上げが予定されている EXOS-D という衛星の話や、「あなた達も新しい衛星のデータで研究ができる」という話をして下さいました。私はそれまで宇宙研で研究をする選択肢は頭になかったのですが、鶴田先生のお話を聞き、人工衛星の現場の中で研究することへの興味がむくむくと沸き上がりました。その後宇宙研を2度ほど見学してここで研究することを決め、大学院入試にも合格できました。大学院へ入学する1か月前に EXOS-Dは無事に打ちあがり、「あけぼの」という名前が付きました。私はその後プロジェクトマネージャーとして停波を担うまで、 「あけぼの」に26年間関わり続けることとなりました。
あの時「地球観測論」 で鶴田先生のお話をうかがう幸運がなければ、「あけぼの」との関わりはもちろん、研究者になっていたかどうかも含め、その後の私が辿った道はずいぶん変わっていたかもしれないと思います。
更に、修士の2年間だけのつもりだった「宇宙」の研究を結局今まで続けてこられたのも、鶴田先生のご指導、ご助言に負うところが大きいと感謝致しております。宇宙研での大学院時代、更に就職して後も、鶴田先生には研究に関して多くのご指導を頂くとともに、必要な経験を積むための様々な機会を与えて頂きました。研究以外でも多くのことをお教え頂きましたが、その中で最も印象に残っているのは海外出張に関することです。鶴田先生はお忙しく多くの海外出張をこなされ、大変旅慣れていらして、いつも驚くほど少ないお荷物でお出かけされていました。私が博士2年の時にアメリカで行われた研究会に出張した時、経由地であるデンバーで一人で1泊することになりました。当時デンバーの治安が余り良くなかったことから、鶴田先生は出発前の私に、街中ではなるべく大きくて人通りのある道を選んで歩くこと、通りを曲がって人気が無いと感じたらすぐに元の通りに戻ること、などの注意を与えて下さった上で、「胸ポケットにいつも10ドルを入れておきなさい」とおっしゃるのです。「Holdup に遭っても、10ドルを取ったらそれで満足して行ってしまうから」幸い10ドルが役立つような危ない目にはこれまで遭ってはいませんが、今でも海外出張の時には、何かあった時のために財布とは別のすぐ出せる場所に10ドルを入れておくことが習慣となっております。
鶴田先生に最後に直接的にご指導を頂いたのは、水星探査機 BepiColombo「みお」(MMO)搭載磁場観測器の審査会でした。基本設計審査会の時には、國分先生、五家先生、そしてNASAのAcuña先生に審査員をお願いしたのですが、その後残念ながら Acuña 先生がお亡くなりになりました。鶴田先生は磁力計をご専門にされていたわけではありませんが、衛星搭載機器全般に造詣が深くていらっしゃることから詳細設計審査会の審査員をお願いしました。期待通り、というのは余りにもおこがましいのですが、鋭く的確に有益なコメントや助言を下さいま した。審査会の後、衛星プロジェクトを進めていく上での宇宙研外の研究者との協力や、機器メーカーの方との協力について、鶴田先生の豊富なご経験に基づいたお考えをうかがう機会がありました。まだまだ経験値の足りない私にはとても 勉強になったのと同時に、先生もいろいろと悩まれながらプロジェクトを進めて来られたのだな、ということも僭越ながら感じました。
鶴田先生から頂きました多くのご恩に改めて感謝申し上げるとともに、心からご冥福をお祈り致します。
鶴田先生と私
宇宙科学研究所
森田泰弘(もりたやすひろ)
鶴田先生と私の出会いは 1982年の春、私が修士の学生として宇宙研に入ったそのときでした。当時の宇宙研キャンパスは駒場にありましたが、ハレー探査ミッションの実現に向けて理学と工学が一丸となった活気あふれる時期でした。そういう雰囲気の中で、私を含めて新入生3人にテニスコートの向かいの白いプレハブ(ホワイトハウスとかそんなような名前で呼ばれていた真新しい建屋でした) に居室が与えられることになったのです。その際、指導教官の秋葉先生からこう注意されました。「君たちの向かいの部屋には偉い先生がいらっしゃるので静かにしているように」。それが鶴田先生でした。お会いしてみると穏やかなジェントルマンで、注意されなくとも大人しくしていたと思います。ただし、一度だけまさかの痛恨事があったことは忘れることができません。というのも翌年の秋、部屋のテレビで巨人対西武の日本シリーズを見ながらうっかり大騒ぎ。そのとたんに学生らしき人が怒鳴り込んで来て「君たち,ここは研究をするところなんだぞ。静かにしたまえ!」今にして思えば、騒いでいたのは阪神ファンとヤクルトファンでしたので、何もそんなに興奮することもなかったのですが。
私はロケット開発で申し分のない研究者人生を歩ませてもらいましたが、宇宙研工学はロケットと衛星・探査機両方やるのが本分です。私は鶴田先生主宰のサンプルリターン研究会に参加していましたし、GEOTAILやのぞみのワイヤーアンテナの開発ではダイナミクスを担当していたご縁で、鶴田先生にはずいぶん可愛がっていただきました。
GEOTAILにおけるチーム構成は、今は亡き雛田先生と私、システムの日立さんとハードウエアの明星電気さんという少数精鋭でしたが、私 がダイナミクスの解析プログラムを作って、日立さんがシミュレーションするという和気あいあいとした町工場スタイルでした。そんなあるとき、確かプロジェクトのコスト削減という検討をしていたころだったと思います。偉い先生方の間で「シミュレーションも森田君がやればいい」という怖い雰囲気が醸成されかけた流れの中で「森田さんと日立さんのコンビでやってもらうのが一番いいんじゃないか」と待ったをかけてくれたのが鶴田先生でした。
これにはしびれました。 意気に感じたというか、私はすっかり鶴田ファンになってしまいました。その後一層身を粉にしたことは言うまでもありません。外注予定だった搭載ソフトのコーディングも進んでやりましたし、伸展異常時の対応計画も綿密に練ったのですが、これは大当たりとなりました。というのも、GEOTAILの4本のワイヤーのうち1本の伸展が途中で止まってしまったからです。私の心臓も一瞬止まりかけましたが、その後の対応は注文通りでした。このときの経験はのぞみの自律伸展システムにもつながりました。
こんなわくわくするような経験をさせていただけたのも鶴田先生のご指導のお陰だと思っています。
このような青春時代の思い出に加えて、宇宙研所長としての鶴田先生には特別に後押しをいただきました。というのも、私は JAXA 統合後にM-Vプロジェクトマネージャとして相模原とつくばの連携に深くかかわることになったからです。つ くばでは暖かく迎えてもらいましたが、統合直後に H-IIA の固体ロケットブースタの事故があって、M-V にも及んだ総点検の大騒ぎで心身ともに疲れ果てた時期もありました。ときおり所長室に呼ばれて状況のご説明をしたのですが、そのたびに鶴田先生の笑顔と穏やかなお人柄に元気づけられたことは言うまでもありません。特に「固体ロケット開発でも衛星・探査機開発でも、宇宙研は独自の考えをしっかり持ってやってきたんだから、慌てなくて大丈夫ですよ」というお言葉は、まさに鶴田先生のスピリットを一言で言い現わしたものとしてとても感銘を受けました。
ちなみに、かの日本シリーズの件で私の部屋に怒鳴り込んできたのは・・・中村正人先生です。これには不思議な縁を感じます。なぜなら、M-Vやイプシロンの打ち上げで、気象班チーフの中村先生と私はいつも2人3脚でしたから。しかも先日どこかで彼が鶴田先生のことを話すのを聞いていたんですが、同じ薫陶を受けていることがよくわかりました。いろんなことがつながっているんですね。
鶴田先生のスピリットを大切にして、これからも宇宙研ミッションを後押ししていきたいと思います。
鶴田浩一郎先生のこと
宇宙科学研究所 名誉教授
松尾弘毅(まつおひろき)
鶴田先生が亡くなった。年齢も近く駒場からの時代を共有した仲間であった。
駒場時代、片や理学の助手片や工学の助手として、あまり席を同じくすることはなかったが、軍事研究をめぐって激突したことがある。極地研の南極観測に宇宙研からも職員を派遣することになったのだが、操船が自衛隊に任されており、 このような関係が軍事研究への道ひいては戦前への回帰につながるというのが、 組合の主張であった。この件に熱心であった鶴田さんが工学側の無関心を嘆くので、妙にまじめになることもある私は工学側の助手を集め理学と意見交換した。 先に激突と書いたが、実際は「暖簾に腕押し」で Mロケットの開発に邁進していた工学側としては「砕氷船は軍事技術か」などという議論にかまけている暇はなかったのである。後に全所集会で鶴田さんが工学側の無関心を論難したが、私に 言わせれば、説得できなかったのは説得する方の責任であり、される方の責任ではない。この件で私の中では鶴田さんに二重バツが付いた。以下に述べるように すぐ二重丸になるのだが。
次の接触は、1989年の磁気圏探査衛星「あけぼの」の打ち上げにおいてで ある。私は打ち上げの全権を握る実験主任、鶴田先生は衛星全体に責任を負う衛星主任であった。詳細は忘れたが、現地での最終段階で衛星に、異常を示すかもしれない兆候が見られた。大丈夫だというのが工学側の見立てであったが、外部から参加の理学の某先生から「原因を徹底的に究明するのが工学としての態度ではないのか」と異議が出た。まことにご尤もであるが、一方子供みたいなことを 言われても困る。衛星を分解して再組立てするのがいかに大変なことであるか。 二次災害の惧れもある。例えば一観測機器の故障とか影響が限定的な場合には、 その機器を見殺しにして打ち上げることだって考えられるのである。「打つのか 打たないのか」というのが私の最後通牒であったが、鶴田先生が議論を収束させて、打ち上げに漕ぎつけた。打ち上げられた「あけぼの」は稀に見る長寿命で知られている。
次は、宇宙研にとって初の本格的惑星探査機となった火星探査機「のぞみ」である。開発途上にあった工学側からの度々の許容重量変更に辛抱強く付き合ってくれた。1998年に打ち上げられた探査機は、電源系の故障で火星到達を諦めざるを得なかったが、限られた情報から内部の状況を明らかにした努力は、語り草である。残念ながら状況が判るのと復旧できるのとは別である。
2007年に月探査衛星「かぐや」が打ち上げられた。当時の宇宙開発事業団 と宇宙研ががっぷりと組んだ、大計画であった。鶴田先生は、科学観測を担当し た宇宙研側の取りまとめ役として、全国の研究者を組織された。結果は月表面の ことは「かぐや」に訊けと胸を張るほどの成功で、世界の目が月に注がれていな かった時期において、この「かぐや」の成果はもっと評価されていいと思う。

2001年、ご自身の退官パーティでの1枚
(左から長瀬文昭先生、鶴田浩一郎先生、 松尾弘毅先生、向井利典先生)
こんなこともあった。慢性の人材不足を少しでも解消すべく、私は寄付講座の導入を考えていた。企業との合意も成立していたのだが、これに「ちょっと違うのではないか」と鶴田先生が反対された。今考えると隔世の感があるが、この件は立ち消えになった。当時想定されていた人物に問題はないが、将来に禍根を残すと考えられたのであろう。別に私怨は残っていない。
最後に、いわゆる三機関統合である。従来から文部省傘下の宇宙研と科技庁傘 下の事業団との統合ばなしはことあるごとに浮上していた。それが行革の流れの中で、上記の二機関に航空宇宙技術研究所を加えた形で一気に具体化したのであ る。準備会合では鶴田先生が宇宙研を代表されたが、他機関からの信頼も厚く、 途中で定年を迎えられた折には、何とかならないのかとの声も上がった。何とかなるくらいなら何とかしている。後任は松本敏雄先生にお願いしたが、憎まれ役を引き受けていただいて感謝している。
その後、宇宙研としては異例の形で、すでに外部にあった鶴田先生が所長に就任されたのはご承知の通りである。
東小金井の居心地のよさそうなホームでお会いしたのが最後になった。ご冥福を祈る。
(ISAS ニュース No.479 を改訂)
鶴田君の逝去を悼む
宇宙科学研究所 名誉教授
西村純(にしむらじゅん)
鶴田さんが亡くなられて、もう半年近い日が経とうとしている。月日の経つのが早いのに驚くとともに、また彼を失った残念な気持は和らぐことはない。
この数年、体調を崩しておられたことは承知していたが、ご逝去の報に接し、大きなショックを受けた。彼自身は、病が深刻であることを悟っていたのかもしれないが、その数週間前まで時々電話で話して、IPS細胞で完全に治るのももう直ぐだと励ましていたのである。
彼が宇宙研に入所したのは私とほぼ同じ1960年代で、宇宙研が発足した時期である。大学紛争の少し前の、社会的には不安定な頃であった。その前年まで、南極観測の輸送は海上保安庁が担当していたが、保安庁は古い船体での運航に不安を感じ、辞退を申し出ていた。日本学術会議は緊急に議論して、輸送に限り自衛隊に依頼することで、南極観測を続けようとした。極地研究所がまだ出来ていない不完全な体制の中で、観測に伴う屋外作業もついでに頼めば良いと考えた人がいたかもしれない。この年から宇宙研の気象ロケットも南極観測に加わることになっていた。
宇宙研の職員組合は所の執行部にこの問題を投げかけた。職員組合の委員長は鶴田君である。理路整然と詰めよる鶴田君に所の執行部はズルズルと押されて、3回に及ぶ全職員による大衆団交を開くまでになった。
最終的には、所の執行部はこの問題の解決には極地研の設立が不可欠である事、 自衛隊に輸送以外の業務は頼まない事を明確にするよう文部省と日本学術会議に正式に申し入れ、この問題の解決とした。鶴田君を委員長とする組合側の意見が取り入れられ、また所の執行部もその立場を崩さず、その後の南極観測を発展させる方向に働いたことになる。
あの時、彼が委員長でなければ、どの様な結末を迎えたのだろうか?
もしも組合側が勢いに乗って暴走すれば、交渉は良い方向に進まず、今日の様な 南極観測の発展は望めなかったかもしれない。この交渉の時、私はたまたま所の意向を述べる立場にあり、彼と対立するような場面もあったが、研究のことについては気の合う良い仲間であった。岩手県三陸町に大気球観測所があり、彼も気球実験に時々訪れていた。ユニーク な発想でよい実験をやっておられて、ともに楽しく議論したことなどを思い出す。
その他、優れた衛星実験など研究業績とともに物事の対処する彼の感性の鋭さに 常々感銘を受けてきた。
今のように研究の体制が混迷している時期に、彼がいて呉れたらと思うと、残念でならない。御冥福をお祈りするのみである。
(ISAS ニュース No.479 を改訂)
鶴田浩一郎さんを偲ぶ
宇宙科学研究所 名誉教授
西田篤弘(にしだあつひろ)
私が鶴田さんと知り合ったのは東大地球物理学科で彼が修士論文を発表したときです。電離層の whistler wave伝搬についての論文が実に見事で、強く印象に残りました(何年か後に地震学の教授から、「彼の修士論文は素晴らしかった、すぐに博士号をあげても良いと思った」と言われたことがあります)。そういう訳で 1968 年に宇宙研でわれわれのグループ(教授は大林辰蔵先生)にポストが出来た機会に声をかけ、参加していただいたのです。
鶴田さんの研究業績の中で際立っているのはブーメラン法による電場観測器の発 案です。宇宙空間の電場は磁場と並んで重要なパラメーターですが、衛星に固定 したアンテナで電場を直接観測すると磁場の中での衛星の運動に起因する成分が 重なってしまいます。そこで鶴田さんは、衛星から電子ビームを発射し軌跡を観 測することによって電場を求める方法(ブーメラン法)を考案しました。この観測 方式は 1992年に打ち上げられた「ジオテイル」衛星で成果をあげ、NASAのMMS衛星やESAのCluster衛星でも採用されて磁気圏物理学の発展に大きく貢献しています。

これに続いて、鶴田さんは我が国で初めての惑星探査計画である「のぞみ」火星 探査ミッションをプロジェクトマネージャとして牽引されました。この探査機は1998年に打ち上げられましたが、予想外の様々な制約や障害に直面し、数年にわたる鶴田さんとメンバーの懸命の努力にもかかわらず計画通りの観測を断念せ ざるを得ませんでした。実に残念なことでしたが、その過程で得た経験はその後の惑星探査機開発と運用に生かされています。
2003 年には日本の宇宙開発研究組織が再編成され、宇宙科学研究所が新たに設 けられた宇宙航空研究開発機構(JAXA)の一環となり、大学の共同利用機関を兼ねるという大きな体制変革が行われました。鶴田さんはこの重要な時期に新体制のもとでの最初の宇宙科学研究所長として円滑な転換を実現なさいました。
1968 年に駒場にて鶴田さん(右端)、筆者(左端)
晩年の鶴田さんはオーロラに大変興味を持ち、何度もカナダで観測を重ねておら れました。いつか纏まったお話を伺いたいと思っていたのですが、その機を逸してしまいました。残念です。
半世紀にわたって頼り甲斐のある友人であった鶴田浩一郎さんのご冥福を祈りま す。
(ISAS ニュース No.479 より転載)
鶴田さんのこと
宇宙科学研究所 OB
前澤洌(まえざわきよし)
鶴田さんは、私が人生の中で辿ってきた道の入り口付近で、周囲を見回していたとき、迷ったりはじき出されたりしないよう、そばにいて巧みに道を教えてくれた人である。具体的にどうやって、と訊かれるとうまく説明できないのだが、私の中で、これは間違いのない事実である。私は鶴田さんより8つも年下であるから、世間的には「鶴田先生」と呼ぶべき関係であろうが、私の中では「鶴田先生」と呼んだら、全く違う人のような感じがしてしまう。「先輩」といってもまだ違和感がある。失礼な言い方にはなると思うが、研究の楽しさ、またその楽しみ方をともに分かち合える「研究仲間」として、私の人生の初めのころを付き合っていただいたような気がする。こんな風に思わせていただいたおかげで、私はまわりに院生のいない初めての研究室で、安心して大学院生としての研究生活を始めることができた。
鶴田さんが、東大地球物理の博士課程を終えて、宇宙航空研究所(当時東大付属で駒場にあった)の大林西田研究室(研究室の名は教授と助教授の名前を並べていた)に助手として就職されたのは1968年である。少し前後するが、その前年に私は地球物理4年で大学院を受験し、進学すべき研究室を迷っていたが、大学院の指導教官名簿に宇宙航空研究所の教官名が載っているのを見つけて、大気 圏外の宇宙空間は夢があると感じて大林西田研を志望し、鶴田さんと同じ年(1968年)に大学院生として宇宙研に入ることになった。
その当時、宇宙航空研究所の宇宙科学部は創設まもない時期で、どの研究室も、これから皆で一緒に、新しい未知のものを築いていこうという、和気あいあいとした一体感がただよっていた。本郷の、ある意味、エスタブリッシュされた雰囲気とは、全く違っているように私には感じられた。大林西田研は、大林先生の助 手の江尻さんを中心にしたロケット搭載機器による電離層観測と、理論系の西田 先生の地磁気や衛星データ解析を中心した研究との2本立てですでにやっていた (大林先生は理論実験両方)。そこに、その年新しく鶴田さん(西田研助手)と 私(M1)が入ったわけである。私も鶴田さんも、今までとは全く違う世界に足 を踏み入れて、「これから何を攻略するか、自分自身で考えてください」と言い 渡された感じであった。(こういってしまうともちろん語弊がある。鶴田さんは助手だから、すでにやらなければならないdutyが沢山あり、自分で自由に考えられたはずはない。むしろ私に上記のように思わせたのは、日常の鶴田さんの語り 口だったような気がする。私は、右も左もわからなかった)
そのころ鶴田さんは4階の412号室という大きな部屋の一角にいた。この部屋はデータ保管室でもあり、セミナー室でもあり、またお茶やお昼を食べるときにも使う部屋になっていた。私は途中から鶴田さんと同じ部屋に机をもらい、学振 研究員の時期を含めると9年近く机をならべていたことになる。だから、鶴田さんとは、ずいぶん議論をした記憶がある。(鶴田さんも私も夜遅くになるタイプであったから、注文した光来軒のラーメンや丸賀のそばをすすりながら、しばし議論(たいがいは仕事とは関係のない物理や数学の話、特に話に「矛盾」を見つける話、また時には真面目に、今やっている仕事の話)をした。内容で今でも覚えているのが、「自転車はなぜ倒れないか」という話題である。これは小学校か 中学校の時代のよもやま話をしていて、鶴田さんが科学コンテストで賞をもらったという話題がきっかけであった。鶴田さんが賞をもらった答えは、「倒れそうな方向にハンドルを切って、倒れるのを防ぐような、体勢の微調整をいつも人間がやっているから」というものであった。私は「それでは自転車のスピードが遅くなると倒れてしまうことをうまく説明できない。車輪が回転することでコマの原理が働いているのではないか?」と反論した。鶴田さんは、この反論にあまり反論せず、「では賞をもらったのはおかしい?」と珍しく弱気になっておられた。 今考えると、鶴田さんの考えの方が真理に近かったと思い、あの世で謝ろうかと思っている。(ハンドルを切ると進行横方向に慣性力が生じるから、その力で自転車の乗り手は(鶴田さんの言うように)体勢を立て直せるはずである。速度が 遅いと慣性力が弱いので体勢を立て直しにくくなる)。この話題のほかにも、 「VxBの電場(その存在が、飛翔体でプラズマ中の静電場をはかる際の障害になっていた)を、測定器を磁性体で囲んでBを弱めることで除去することは、(相対論から言って)決してできないはずであると、二人で直感を確かめあっ て喜んだことなど、思い出はつきない。
研究室内だけでなく、鶴田さんにはいろいろお世話になった。鶴田さんは学部時代、自動車部におられて、自動車の話題もつきなかった。八王子近く(日野)の お宅から軽自動車で宇宙研に通っておられて、私の家が鶴田さんの通り道に近か ったので、二人とも夜遅くになったときは、しょっちゅう助手席に乗せていただいて帰った。自動車部の経験を生かして、御自宅で、自分の車をエンジンまで全 部分解して組み直したのは圧巻であった。研究室での昼食(皆で食べる)時に進 行報告されるだけでなく、休日に研究室の皆を自宅に招いて、分解組み立ての様子を間近で見せてくださった。このころ鶴田さんの発案で、研究室で自動車2台に分乗して、戸田の海に釣りに出掛けたのは、今も目に浮かぶ懐かしい思い出である。
仕事の面では鶴田さんは当時VLF電波を専門として、観測器回路開発の実験家であり、私は磁気圏の理論とデータ解析をやっていたから、当時一緒に論文を書いたことは残念なが、一度もなかった。しかし前述のようにしょっちゅうお互いの研究での「つっかえどころ」の話をしていた関係もあって、私が名古屋大学に移る最後の年に鶴田さんがカナダで行った「(南半球からの)VLF電波を捉えて磁気圏内のプラズマ過程を探る観測」では、途中で参加させてもらい、観測 アンテナを置いたいくつもの湖沼の岸を、セスナ機大の水上飛行機で巡回すると いう貴重な経験をさせていただいた。
私が駒場を離れたころから宇宙研の科学衛星は黄金時代に入り、鶴田さんは衛星の仕事で忙しくなられた。鶴田さんがプロジェクトマネジャーになって進められたあけぼの衛星は見事に成功し、名実ともに世界のトップレベルの研究成果を挙げた。名古屋大学の私のいた研究室でもそのデータを解析させていただいたので、指導した大学院生が修士論文や博士論文を書く際には大変お世話になった。しかし、宇宙研にはすでに多くの若手研究者がそろっていたこともあり、私が鶴田さんの直接のお役に立てることはあまりなかったと思う。私は、指導教官である西田先生の研究の成果を見て成長してきた経緯もあって、西田先生のGEOTAI L衛星の磁気圏尾部のデータが本当に面白く、磁場と荷電粒子のデータ(HEPとLEP)の名大での解析環境を整えることで、(若い人だけでなく自分も)そのデ ータ解釈に当時のめりこんでいた。
鶴田さんとの思い出は人によってさまざまな場面があろうと思うが、鶴田さんの 気さくな人柄は、本能的にまわりの人々に慕われるところがあり、また重要な地位につくにつれ、人との交渉力も含む行政面での才能も発揮されたので、その面で回想される方も多いと思う。しかし、私には、あくまで研究の探究者としての鶴田さんであった。あけぼの衛星が上がった後は、私が宇宙研で鶴田さんに会う 機会には、いつもオーロラ、特に脈動オーロラの不思議さの議論をふっかけてくる鶴田さんであった。
鶴田さんの思い出といわれると、どうしても西田研の初期の、若かりし時代に一緒に過ごした場面が次々に思い出されるのであるが、実は50歳を過ぎて私がまた宇宙研にお世話になることになったのも鶴田さんがきっかけである。私が修士 課程のとき宇宙研の初めての人工衛星打ち上げが成功したのであるが、その後私が名古屋大学に移って宇宙研から離れていた間に、宇宙研のロケットの打ち上げ能力は次々と高まって、惑星探査計画の議論が始まっていた。鶴田さんは火星上層大気の探査計画を主導しておられたので、火星では、どんな物理をやるべきか、そのためにはどんな観測をしたらよいか、私も時々鶴田さんに頼まれて考えてい た。そんなこともあって、火星探査機「のぞみ」の打ち上げが成功した時点で、宇宙研の教授として「のぞみ」のサイエンスのとりまとめをやってくれないかと、鶴田さんに頼まれたのである。
「のぞみ」は火星に向けての地球重力圏離脱時の不具合で、火星到達が4年延期になり、惑星間空間で起こったさらなる不具合もあって火星周回軌道投入を断念 したため、宇宙研にきてから鶴田さんのお役に立つことは、残念ながらできなか った。しかしその4年間、まったく無知であった衛星の工学的側面の勉強ができ、 また「のぞみ」のあとは、新しい地球磁気圏衛星計画の立案もすることができた。 鶴田さんは一旦退官された後、三機関統合前に所長として所長室に入られた。そのため研究の無駄話を交わさせていただく機会はほとんどなくなったが、鶴田さんに宇宙研に呼んでいただいたことにより、研究生活最後の10年を、宇宙研の方々とまた一緒に過ごすことができたことは、大変感謝している。
最後に、鶴田さんのご冥福をお祈りするとともに、向こうでお会いした時に、また一緒にサイエンスの議論をできればいいな、と心から思っている。
鶴田さんとの日々
宇宙科学研究所 OB
早川基(はやかわはじめ)
鶴田さんとのお付き合いは私が大学院に進学することが決まった 1978年10月に鶴田さんたちが翌年夏に科研費でカナダでの多点観測を行うための観測機器作成 のお手伝いの時からです。その翌年の夏にはカナダから電話があり、向こうでは 手に入らない部品を秋葉原で買い、直ぐにカナダへ出かける前沢さんに渡して欲しいと頼まれるなど色々と有ったはずなのですが、実は鶴田さんの助手に採用されるまでの間の事はあまり記憶に残っていません。
鶴田さんが助教授になり、鶴田研で装置開発を行う助手の公募が出た時に、偶々博士課程から向井さんに弟子入りして居たおかげか応募して採用されてからは濃 密な日々を過ごすことになり、鶴田さんの事を間近で見て色々と知る事が出来ました。私から見た鶴田さんは「アイデアマン」「オーロラ現象の解明に情熱」 「物作りが好き」な人でした。そして結構短気で頑固な人でした。最も私も短気で頑固なので人の事は言えませんが...
鶴田さんは「あけぼの」とGEOTAILに搭載する電場計測器を開発する事になっていましたが、その当時ダブルプローブ法による電場計測は信頼度があまり高くなかったこともあり、GOES-2でヨーロッパのグループが新たに開発した荷電粒子を用いた電場計測法(トライアンギュラー法)を改良し、その欠点を克服出来る新たな電場計測法(ブーメラン法)を考案し、従来からのダブルプローブ法と合わせて搭載する事になりました。ただ、当時の鶴田研は鶴田さん、大学院生だった中村君と私の3人だけだったため、両方のシステムを開発するのは無理という事で鶴田さんは当時名古屋大学空電研究所におられた岡田さんを巻き込みダブルプローブ法の方はUCバークレーのMozer先生に色々とお聞きしながら岡田さんにお任せをして、宇宙研組はブーメラン法の開発に注力をする事にしました。あの頃はお金が無かった事もあって実験装置も手作りで、鶴田さんがひょいひょいと実験で使う高圧電源を作っていたのを思い出します。毎日とても忙しかったけれど今と異なり会議も少なかったために私と中村君は夫々の担当部分に集中する事が出来ました。鶴田さんはそれなりに会議があったようですが、実験を一緒にしたり議論をしたりと充実した楽しい日々でした。
ほぼ毎日お茶の時間には鶴田さんの部屋に鶴田さん中村君、秘書さん達が集まってお茶をしたり雑談をしたりしていましたが、たまに鶴田さん、中村君、私の3人のうちの2人が議論を始める事がありました。何故かその時は残る一人は傍観者となり高みの見物をしていました。議論をしている2人は「議論」をしているだけなのですが、そんなに激しいやり取りをしていたわけでは無かったと思うのですが、秘書をしていた山川さんに随分後に「怖かった」と言われて驚いた物です。また、時には鶴田さん一人が机に戻って仕事をする中、中村君と私は秘書さんとおしゃべりを続けている事もありました。こういう事を許してくれるのが鶴田さんでした。
鶴田さんは結構短気でしたが普段はそれを抑えて外には見せないようにされていたのと、秘書さん相手の時はいつもにこにことしていたので「鶴田さんって結構短気だよ」と秘書さんに言うと皆驚いて信じてもらえませんでした。一度だけ電話の相手に本気で怒っているのに遭遇した事があるのですが、同じ部屋にいた中村君も私も自分が怒られているのではないにも関わらず怖くてビビったのを覚えています。
鶴田先生(中央)を囲む会で、駒場のプレハブ時代の秘書さん達と。後列右が筆者。撮影者:中村くん

「のぞみ」の立ち上げからは半田ごてを握る方ではなくマネージメントサイドに移りましたが、それでも暇を見つけては電場データの処理のためのソフトを自作されていましたし、たまに半田ごてを握ると「目が悪くなって抵抗のカラーコードが読めないんだよ」と言いつつ嬉しそうに作業をしていたのを思い出します。
鶴田研を立ち上げてからは宇宙研を退職するまでオーロラ観測からはちょっと離れた仕事が多かったのですが、オーロラ現象の解明に対する情熱は薄れずアンドーヤでのロケット実験を立ち上げましたし、何よりも宇宙研を退職後に自作のオーロラ観測用のカメラを作成して奥様と2人でカナダへの観測旅行に何度か行かれています。
その際に持って行った自作のオーロラ観測用のカメラですが、作成 時に宇宙研に来られてお話をした時に「日本の某メーカー製CCDが良いのだけど日本では売ってもらえないんだよ。でも調べたら、ヨーロッパでは手に入るので取り寄せた」とあのいつもの笑みで嬉しそうに言っておられ、本当に物を作るのが好きなんだなと感心しました。またカナダへ行かれた後に来られた時には目を輝かせながら楽しそうに観測の話を聞かせて下さり、次回の予定も話されていたのですが、病気で体調が悪くなり結局実現できませんでした。もうあの笑顔が見られなくなってしまったのがとても寂しく残念です。
鶴田浩一郎さんを偲んで
東北大学 名誉教授
大家寛(おおやひろし)
1985年ころだったと思います。鶴田さんは EXOS-D(「あけぼの」)衛星のプロジ ェクトマネージャとして衛星観測に参加されました。この衛星計画は1981年宇 宙科学研究所の理学委員会で、OPEN計画(後にGEOTAIL計画としてスタート)の 兄弟ミッションとして提言されました。また、当時計画中の国際共同研究STEP (SolarTerrestrialEnergyProgram:1990年~1995年に実施)において、地上観測と協働する重要な宇宙空間観測の任をもつという国際的な位置づけもあり ました。私は我が国でのSTEP計画推進を任じられていた事情があり、鶴田さんとは二人三脚のような形でEXOS-D(「あけぼの」)衛星の観測計画、予算要求、そしてプロジェクト実施に関わらせていただきました。この衛星が果たした成果に NASAの衛星プロジェクトに深くかかわる科学者は“The World First Class Satellite”と称賛を惜しみませんでした。種々の成果はもとより、大変な驚きは放 射線帯の真っただ中を航行しつつ、太陽黒点周期2サイクルを越え、26年間にも 及ぶ長周期観測を主要観測機器の健在状態で継続した事です。これは鶴田さんが 観測機器の放射線対策を強く唱えてこられた賜物でした。
鶴田さんと私の二人三脚は次の地球型惑星探査ミッションでも続きました。しかしこのミッションの門出では、二人三脚に不可欠なリズムの調和がひと時乱れま した。今、鶴田さんは苦笑いされているかと思いますが、私が主査を任じられていた宇宙科学研究所・理学委員会設置の地球型惑星探査計画ワーキンググループは 1996年に金星探査を提言すると結論しましたが、プロジェクトマネージャの任につく鶴田さんは当時の技術背景において、よりチャレンジ性の高い火星探査の方が研究所内の志向性に沿うという理由で譲らず、私との二人の会談では、鶴 田さんの日頃の穏やかさからは意外なほど激昂されるシーンもありました。私は 惑星探査ミッションの重要さを思い、理学グループの分断あってはなるまじと、地球型惑星探査計画ワーキンググループの結論を火星探査に変更しました。当時、工学サイドからは中谷一郎教授に抜群の努力と才能をもって支援をいただき、見 事に火星探査計画がまとまりました。ただ、ロケット能力の限界から、火星探査 の場合に不可欠になった地球スウィングバイで、加速噴射用の電磁弁の異常があ り、結局、ミッション・インポッシブルとなったのは残念でした。
懸案のISASと宇宙開発事業団とが新組織として合流改組という大変革の時期に、時あたかも鶴田さんが所長の重責に当たられることになりました。定年後、私は あまり情報なく過ごしたのですが、ただ言えることは鶴田さんだからこそ、ISAS は多くを失うことなく新設となったJAXAにソフトランデイング出来たと信じて います。
鶴田さん、ご苦労さまでした。どうぞ、安らかにお休みください。
(ISAS ニュース No.479 より転載)
新たな文化の構築について鶴田先生から学んだこと
宇宙航空研究開発機構
国際宇宙探査センター
大嶽久志(おおたけひさし)
私は1995年から、当時の宇宙開発事業団(NASDA)のメンバとして、「かぐや」(SELENE)プロジェクトの立ち上げに携わっていました。
かぐやはJAXAの前進である宇宙開発事業団と宇宙科学研究所(ISAS)の初の本格的な共同プロジェクトであり、信頼性・品質保証に重きを置く開発方式のNASDA、最先端技術にチャレンジする開発方式のISASというように、異なる文化を持つ両者がお互いを理解することが成功の重要な鍵でした。バスシステムとロケットはNASDA方式で開発されましたが、私が主にシステムの立場で全体取り纏めとして関わっていた15の搭載ミッション機器はほとんとが科学観測機器であり、太陽系科学コミュニティの研究者が主力でありつつ、機器開発メーカはNASDAからの契約でした。すなわち、信頼性・品質管理と最先端技術について如何にバランスをとり、NASDAとISASの文化を融合させるかが、プロジェクト立ち上げから終了に至るまで一貫しての挑戦でした。
そのような背景の下、NASDA/ISASが共同プロジェクトを円滑に進めるためにプロジェクト全体のステアリングチーム(通称「世話人会」)を発足させ、1995年より私はNASDA側のメンバとして世話人会に参画しました。鶴田先生はISAS側のトップとして世話人会に参加され、ここで私は鶴田先生と仕事を一緒にさせていただくことになりました。鶴田先生がISAS企画調整主幹になられて,かぐやプロジェクトを離れられた1999年度末まで約5間、お世話になりました。
当時私はNASDAに就職したばかりの新人でしたので、NASDA方式、ISAS方式のいずれも熟知していませんでした。頻繁に行われた世話人会において、NASDAの上司と鶴田先生を始めとするISASの方々との間での激しい議論を目の当たりにしながら、両者の文化の考え方を理解し、そして両立の難しさを実感しました。新人ながらも印象深かったのは、相手を尊重するところは優しい表情・言葉で理解を示し、譲れないところは断固とした厳しい態度を示す鶴田先生の姿です。これはNASDAのメンバに対してだけでなく、ISASの世話人会メンバやミッション機器PIに対しても同様でした。NASDA、ISAS両方に分け隔て無く、時に穏やか に,時に厳しく接しられたからこそ、NASDA側メンバからも信頼され、共同プロジェクトとして成功に結びついたと思います。
その後,私は2009年の衛星運用終了までかぐやプロジェクトに参画し、現在は火星衛星探査機(MMX)プロジェクトにサブプロジェクトマネージャとして全体を取り纏める立場で従事しています。MMXは、ひとみ事故で得られた教訓の反映のため科学衛星プロジェクトの進め方が大きく変わろうとしている中で、最初に立ち上がった探査プロジェクトです。
最先端の科学成果を狙いつつ信頼性・品質管理も重視するという観点や、プロジェクト全体の規模が大型であること、相模原・筑波の両方から若手も含めて多くのメンバが参画している状況は、奇しくもかぐやに類似しています。MMX開発を進める中で困難が生じると、かぐやの時には鶴田先生はこのように解決した、など思い出すことが多々あります。しかし、時々ふと、自分は鶴田先生のように相手を尊重できているか、時に厳しく接することができているか、考えさせられることがあります。
その難しさを感じつつ、鶴田先生はJAXA統合だけでなく、科学衛星開発が試練を迎えている現在においても、新たな文化の構築に対して偉大な足跡を残されたことを改めて実感しています。本当にありがとうございました。
鶴田先生へ感謝を込めて
元SELENEプロジェクトマネージャ
滝澤悦貞 (たきざわよしさだ)
鶴田先生、謹んでご冥福をお祈り申し上げますと共に、先生の思い出を記し、追悼とさせていただきます。
私は、SELENE(かぐや)計画において、1990年代から2000年代まで約 10年間、先生にご指導いただきました。
(1)先生が、直接、SELENE 計画に携われた時期の思い出
SELENE計画に関するISAS、NASDA合同の検討作業は1995年に始められました。最初に、文化が異なる2つの機関の初めての共同計画に適した実施体制と業務の進め方等を協議して決定しました。協議には、ISAS側の責任者(鶴田先生)、NASDA側の責任者(担当理事)及び実務の責任者等が参画しました。鶴田先生は、豊富な科学衛星の経験を踏まえ、本協議において中心的役割を担われました。
複数機関の共同計画では、機関の適性等に応じて業務を分担するのが一般的ですが、SELENE計画では、機関間で業務を分担せずに、ISAS及びNASDAの職員で構成する共同チームを設置し、本チームがSELENE計画の全ての業務を担う実施体制としました。
そして、この共同チームの業務を円滑かつ確実にするため、原則、毎月、計画の責任者及び実務の責任者等が、マネジメント、技術等に関する進捗状況、課題の検討結果等について確認、評価、調整等を行う会議が開催されました。(システム連絡会議と称されました)
システム連絡会議では、参加者全員が合意するまで徹底的に議論が交わされました。この結果、共同チーム内の意思疎通が円滑かつ確実となり、また課題等に対して適切な解が得られました。先生は、この会議に毎回出席されました。殆ど休憩が無いとても長い会議でしたが、熱心に、かつ、ご自身が納得されるまで議論されていました。議論中、そして納得された時の表情が思い出されます。
(2)先生が企画調整主幹だった時期の思い出
先生は2000年にISASの企画調整主幹になられました。その後、共同チームの会議に出席されなくなりましたが、SELENEプロジェクトにおいて発生した種々の課題に対して、的確なアドバイスを下さいました。
(3)先生が宇宙科学本部担当理事(本部長)だった時期の思い出
2003年、ISAS、NASDA 及びNAL統合によるJAXA発足に伴い、先生は、ISASの業務、組織等を引き継いだ宇宙科学研究本部の担当理事(本部長)となられました。また、この時、NASDAのSELENEプロジェクトチームの業務、人員等は、宇宙科学研究本部に新設された月探査技術開発室に移されました。この文 化の異なる本部への移行に伴って諸課題が発生しましたが、先生は、室長だった私の相談、意見、要請に対して、真摯に検討、対応して下さいました。
先生と一緒に共同事務所で撮影された写真を見ながら、この追悼文を書きました。 約10年間に渡りご指導をいただき、本当に有り難うございました。
合掌
鶴田先生ありがとうございました
東北工業大学
中川朋子(なかがわともこ)
宇宙研が駒場から相模原に引っ越して鶴田先生のお部屋が院生の部屋の向いになり、我々院生も親しくお話しさせていただく機会が増えました。プロジェクトマネージャーを務められたEXOS-Dの打ち上げ前で、GEOTAILもあとに続いておりお忙しかったと思うのですが、当時から最近に至るまで、様々な場面でお世話になりました。
新しい試みをどんどん実行される鶴田先生について、磁気圏撮像のためのX線回折格子の多層膜の作り方を大阪大の山下広順先生のところに習いに行ったこともありました。日立の茂原工場に行ったこともありました。教授の先生でも技術を1から習い覚えようとされていることが強く印象に残っています。私が初めての院生を持った時には研究テーマとしてGEOTAILの帯電についてやってみてはとアドバイスをいただきました。月の上流で受かったホイッスラー波 の周波数が計算と合わなくて困っているときもこれは絶対面白いから!と励ましてくださいました。これらはその後よく引用される論文となりました。
鶴田先生は教授ながら学生の兄貴分のような雰囲気があり、学生からみてとてもお話ししやすく、かつお話はいつも面白かったです。早川さんが入りたての頃は電子回路は素人だったのに半年もしたら僕の回路に文句を言うようになったんだよね、と話しながらちょっと嬉しそうでした。思い出すのはいつも笑顔です。
もうお話しできないのはとても残念です。長い間ありがとうございました。
駒場プレハブでの思い出
宇宙科学研究所
中川貴雄(なかがわたかお)
私の専門は赤外線天文学で、鶴田先生のご専門とは直接には関係ありません。しかし、大学院時代、私は鶴田先生とその研究室の皆様と親しくさせていただき、大きな影響を受けました。
私は1983年に大学院に入学しました。宇宙科学研究所の奥田治之先生の研究室(赤外線天文学)を訪問し、受け入れていただくことになりました。当時、宇宙研は駒場にキャンパスがありました。宇宙研の中でも、長い歴史をもつ研究室は5階建ての立派な建物に居室を構えていましたが、奥田研究室は設立されたばかりでもあり、キャンパスの端にある67号館という2階建ての小さな建物の2階に居室がありました。そして、何のご縁か、同じ建物の1階に、鶴田研究室が居室を構えておられたのです。
当時の鶴田研究室は、鶴田先生の他には、助手になられたばかりの早川基さんと、大学院学生の中村正人さんのお二人の若いメンバーで、新しい実験測定を進めようという雰囲気にあふれていました。具体的には、ブーメラン法という新しい方法で、スペースでの電場測定を実現しようと、ロケット実験にとりくまれているときでした。一方、当時の奥田研究室は、将来のスペースからの観測に備えて、気球搭載望遠鏡を用いた遠赤外線分光観測を新しく実現しようとしているときでした。両研究室は、分野は異なりましたが、どちらも「将来の衛星観測を目指して、新しい実験観測を立ち上げよう」としているときでした。そのため、話 がよく合ったのか、鶴田研究室とは、研究分野とは関係なく、いろいろなことで親しくお付き合いをさせていただきました。
実は、両研究室の居室があった67号館は「プレハブ」の建物でした。そのため、2階で歩くと1階に音が筒抜けで、足音で誰がいるか分かったそうです。このように足音を通して、奥田研の動向が鶴田研に筒抜けであったことも、親しくさせていただいた一因かもしれません。
さて、新しい実験観測には、失敗がつきものです。私は、大学院時代を通して新しい分光器を開発していました。その分光器を実際に搭載する気球の実験が、幸い博士課程2年の時に実現しました。しかし、期待を込めて行ったその実験は完全な失敗におわり、1ビットもデータが取れないまま、実験先のオーストラリアから失意のまま帰国しました。
そのような中、鶴田先生は、口だけの慰めの言葉などはかけられませんでした。むしろ、態度で方向性を示されました。鶴田研が当時進めておられたブーメラン 法・ロケット実験も、新しい実験であるがゆえ、いろいろと苦労されているようでした。それでも、生じた問題をひとつずつ確実に解決され、前に進んでおられました。その努力を、むしろ楽しそうに、鶴田先生が、早川さん、中村さんと、プレハブの一室で語られていたのを覚えています。鶴田先生のグループのたゆまぬ努力が、その後のGeotail 衛星でのブーメラン法による電場測定成功につながったのではないかと、僭越ながら思います。
そのたゆまない歩みに、私たちも大きな刺激を受け、次なる実験へと闘志をか き立てられました。おかげさまで、私たちの気球実験もその後に成功し、その成 果が、IRTS、あかり」衛星へとつながっていきました。それらを手掛けていく中で、当然のように多くの困難がありました。ただし、そのたびに、駒場の 「プレハブ」の一室で、鶴田先生が楽しそうに苦労を語っておられたのを思い出 しました。その思い出は、何にも代えがたい励みになりました。
その後、JAXA統合後に、鶴田先生が初代のJAXA宇宙科学研究所所長となられてからは、「あかり」の開発、SPICA計画の立ち上げなど、本当に多くのことでお世話になりました。それでも、私にとっては、鶴田先生と言えば、研究生活の駆け出しのころに、駒場の「プレハブ」の一室でいろいろとお話させていただいたことが、何にも代えがたい心の宝なのです。
鶴田先生、ありがとうございました。
鶴田浩一郎先生
ありがとうございました
宇宙科学研究所
中村正人(なかむらまさと)
JAXA 統合時の宇宙科学研究所・所長(当時は本部長)であられた鶴田浩一郎先生が、昨年12月3日、83歳でご家族の皆様に見守られて旅立たれました。とても安らかなお顔だったそうです。
中村が学部4年生で大学院は宇宙研に行きたいと駒場45号館におられた西田篤弘先生にご相談申し上げたときです。西田先生はしばらく中村を質問で試された後「君の先生になるのはこの方です」と後ろを向かれました。それまで気がつかなかったのですが、こちらに背中を向けて窓際のソファに座っておられた白い半袖のシャツ、黒縁眼鏡の方がこちらを振り返って「やあ」と微笑まれました。それが鶴田先生との出会いです。
鶴田先生は新しい電場計測の方法(Boomerang法)を考案されたばかりで、それをロケット実験で実証したうえで衛星搭載したいと考えておられました。それまでの電場計測とは原理が全く異なる、荷電粒子の飛翔時間計測を使った画期的な方法でした。修士2年の夏には観測ロケット実験が企画され、早川基さんも加わって3人で取り組みました。すぐに実証できるとの楽観的な見通しははかなく砕かれ、6年目のロケット実験に成功するまで3機のロケットで失敗しています。このとき、失敗を乗りこえ、さらに新たな失敗をする繰り返しが成功に結びつくということを我々は学びました。鶴田先生が火星探査機で失敗され、金星探査機 は中村が一度は失敗して皆の協力の下に5年後に復活させ、早川さんの率いた水星探査機が今順調に飛行していることも、失敗を後の成功に結びつけていく鶴田研で培われた方法論の表れと考えています。
鶴田先生から教わったもう1つのことは他人の価値観で行動するなということです。常に自分の価値観で物事を判断するという先生の背中を見て我々は育ちました。“一度振り上げた拳は簡単に下ろしてはいけない” という先生のお言葉も、自分の信念を貫かれる態度の表れでした。このことは “穏やかな心と強靱なレジリエンスをお持ちの方だった” と鶴田先生の主治医 (中村の高校の同級生) が先生の亡くなったときに中村に伝えてきた言葉に表れています。
地球プラズマ圏撮像を始めるときも、金星探査を始めるときも鶴田先生には背中を押していただきました。“今村君が金星に行きたがっているから、手伝ってやってくれないか?” という鶴田先生の一言が「あかつき」の最初の一歩でした。
中村は鶴田先生の背中を研究室で見て育ちました。本当に幸せな事でした。
(ISAS ニュース No.479 を改訂)

1986 年頃、駒場 67 号館の前で揃いの Boomerang T シャツを着て。前列左より 上原くん、早川さん、鶴田先生、筆者、後列左より石川さん、渡辺さん、田中さ ん、門倉くん

25年後の 2012年。前列左より門倉くん、鶴田先生ご夫妻、田中さん。後列左よ り、青木さん、渡辺さん、石川さん、山川さん、筆者 (撮影 早川さん)
仙人を偲んで
宇宙科学研究所名誉教授
中谷一郎(なかたにいちろう)
思い起こすと、鶴田先生との初めての出会いは駒場キャンパスにあった小さな仮設プレハブの中の研究室、宇宙研が駒場から相模原に引っ越す前の話です。鶴田先生に対する第一印象は「仙人」でした。
まだ駆け出しのエンジニアに過ぎなかった私を捕まえて、仙人の第一声は「宇宙空間に打ち出した荷電粒子がUターンして元の所に帰ってきた微弱信号を検出する方法は?」という問い。私は禅問答に目をシロクロさせるばかりでした。白状するなら、ブーメラン方式と名付けられた鶴田先生の世界的な発明を知ったのはずっと後のことです。
「仙人」という第一印象が正しかったことは、次のようなエピソードで立証されました。フロリダで週末を挟んだ会議があり鶴田先生と出席したときのこと、日曜日にホテルに籠りそうな鶴田先生を、なかば無理やりユニバーサルスタジオに お誘いしました。ネクタイにスーツ姿の鶴田先生はユニバーサルスタジオに到着すると本当に驚かれた様子で、どこかのスタジオを訪問するのかと思われたとのこと。最初に体験したアトラクションでいきなり疑似的な竜巻が我々二人に襲い掛かり、猛烈な風と雨が叩きつけられたのは私にも想定外でした。しかし、ユニバーサルスタジオを全くご存じなく背広姿でスタジオ見学をするおつもりだった「仙人」はどんなに驚かれたことでしょう。
その仙人の率いるオーロラ観測衛星「あけぼの」と火星探査機「のぞみ」開発プロジェクトにエンジニアとしてお誘いを受け、お手伝いをすることができたのは 私の人生の大きな山場となりました。
自然の解明を目指す理学の研究者(鶴田先生はその代表者のお一人)とそれを技術的に実現する工学の研究者(私が期待された役割)がペアを組んだというのが、外から見たプロジェクト体制です。実情は、私のような未熟な工学者よりも鶴田先生の方が工学的な知識がはるかに豊富で、私は手探りでプロジェクトを進めながら、薫陶を受ける立場にありました。
「あけぼの」も「のぞみ」も海外との協力ミッションだったので、鶴田先生とはずいぶん海外出張を共にしました。ところが二人とも筋金入りの方向音痴で、道に迷ったりレンタカーが返せずに帰りの飛行機を逃しそうになったことが度々ありました。
あるときロサンゼルス空港でレンタカーを借り、鶴田先生と JPL(ジェット推進 研究所)に行きました。カーナビなどまだない時代の話です。運転をする私を助手席に座った鶴田先生が地図を見ながらガイドすることになりました。予め準備した地図に主な交差点の曲がり方を赤字で書き込み、鶴田先生にお渡しして出発しました。ところが、レンタカーの店を出て、初めての交差点で鶴田先生は突然、地図上の矢印とは反対方向に曲がるように指示しました。私は不審に思いながら その通り曲がりました。私も方向音痴で、間違いを主張する自信はなかったのです。しかし、とんでもない方向に進んでいることはやがて分かってきました。初めての交差点でこの状態ですから、あとの50kmほどの難行苦行はご想像のとおりです。のちに「鶴田仙人は道に迷うと 100%間違った方向に行こうとし、私は50%の確率で間違う」という法則を発見、ナビ問題は解決しました。
一方、鶴田先生は研究プロジェクトにおいては驚くほど的確な判断で正しい道を進む能力をお持ちで、プロジェクトのメンバーは鶴田先生の判断に安心してついていきました。
間もなく私が道案内に馳せ参じるまで、天国で仙人が道に迷っておられないことを念じつつ、心よりご冥福をお祈りします。
(ISAS ニュース No.479 を改訂)

1998 年7 月、火星探査機「のぞみ」を打ち上げた後の祝賀会場にて。中央の鶴田先生を囲んで左から、上杉邦憲先生、小野田淳次郎先生、鶴田浩一郎先生、故 折井武さん (NEC)、筆者
鶴田先生を偲んで
京都大学 名古屋大学 名誉教授
町田忍(まちだしのぶ)
私は大学院博士後期課程の時代に鶴田先生に御指導いただき、VLF波動の研究に取り組みました。その折に様々な言葉をいただきましたが、特に覚えているものは、「定説にとらわれてはいけない。常識は疑わないといけない」という言葉です。当時の私は、既に完成した体系や知識を教科書や資料に沿って身に付けることに注力してきましたので、当初そのような考え方はなかなか受け入れがたいものでした。しかし、その後、年を経るにつれて先生がよく口にされていたその言葉の意味が徐々に理解できるようになってきました。
振り返ってみると、鶴田先生ご自身の足跡に、その信念が貫かれてきたことが見てとれます。例えば、私が先生に教えていただき始めた頃、磁気圏中を伝搬して電離圏下部の出口で射出され地表に伝わってくるVLF電波の到来方向を求める手段としては、地上の2点でVLF電波の東西および南北方向の磁場2成分を計測し、そのデータから到来方向を推定する方法が一般的でした。しかし、先生は、地上の1点でVLF電波の磁場2成分と、鉛直方向の電場1成分を計測することによって、到来方向を求めるNon-Polarization Error法と呼ばれる独自の手法を編み出しておられました。
また、私がVLF波の研究に参加してから始まった、地上の多点でVLF電波を観測し、波動強度の空間分布から電離圏下部にある電波出口の状態を推定する方法にも先生の信念が貫かれていました。当時は、電離圏下部の出口から射出されるVLF電波は、殆ど減衰することなく遠方まで伝搬するため、そのような観測を行ってもすべての観測点でほぼ同一の電波強度を示すであろうと多くの専門家は考えていました。計画に深く関わって観測の準備を進めていた私は、その努力が水泡に帰す可能性もありましたが、常識にとらわれずに新しい方法に挑まれる先生の姿に共感し、観測の成功に向けて力を尽くしたことが懐かしく想い出されま す。単にアイデアや技法を提案するにとどまらず、あらゆる困難を乗り越えて、それを実現にするところに鶴田先生の卓越した才があらわれていました。
所属組織が、東大の宇宙航空研究所から文科省直轄の宇宙科学研究所に改組されるに伴い、ロケットや人工衛星を用いた観測に重点が置かれるようになり、VLF電波の地上観測は残念ながら店仕舞いをすることになりました。その後は、衛星に搭載し電場を計測する機器の開発に専念されることになりましたが、その折にも、鶴田先生は、電場計測の技法として当時ほぼ確立していたダブルプローブ法では満足せず、ブーメラン法と呼ばれる画期的な手法を考案されました。これは、微小な電子/イオンのビームをロケットや衛星から放出して、それらが電場 の影響を受けつつサイクロトロン運動をして衛星位置に戻ってくるフラックスから周囲の電場を求めるという方法です。微少であっても、宇宙空間に電子やイオンのビームを放出すると、その周辺にプラズマ波動が励起され、結果的に電子やイオンの軌道が変化してしまうというのが、従来のプラズマ物理学の常識でした。
しかし、電場計測チームを率いる先生は、放出ビームに変調をかけてS/N比を高めるなど様々な工夫と改良を重ね、最終的に完成に漕ぎ着かれました。この新しい電場計測手法の確立も鶴田先生の面目躍如といったところであると思います。
ですが、当時の私は、先生のそれらの先駆的な業績の価値を十分に理解していなかったように思います。大分年を経て、専門分野をいくらか俯瞰できるようになって、はじめて鶴田先生の数々の業績と先生の言われていた「定説にとらわれてはいけない。常識は疑わないといけない」という言葉の真の意味を理解することができるようになったと感じます。先生は理論と実験の両面に通じ、取り組まれていた課題について、その奥義を極めておられました。
話が少し戻りますが、鶴田先生のVLF波動に関する業績をもう少し詳しくお伝えするために、私が院生の時代に先生にお供して参加した、カナダでの2回の観測の話を紹介させていただきたく存じます。

カナダ東部ケベック州周辺の 地図。観測点を×印で示して います。期間の前半においてA~Lの12点で観測を行い、 電離圏下部の出口から射出さ れるVLF電波が、地表面に 描く2次元パターンを求めることを試みました。観測計画 の立案・実施にあたっては、 西田先生、前沢さん、寺沢さ ん、池田さんほか、多くの 方々から貴重なご意見と、ひとかたならぬご協力をいただきました。
まず、最初のものが、1979年7~8月の期間にケベック州のロバーバル周辺で行われたVLF電波地上多点同時観測キャンペーンです。この時は、図に示すように観測点間の距離を70~90km程度とし、それら観測点を東西に3つ、南北方向に4つの計12点を格子状に配置して観測を行いました。当時は準備した観測器の制約上、4日に一度テープとバッテリーの交換を行う必要がありました。地図では明らかではありませんが、観測点を設置した地域には、無数の湖沼が点在しています。そこで、その特徴を活かして、全体の8割ほどの観測点には水上飛行機を利用してアクセスすることにしました。これも、現地で鶴田先生が情報を収集され、急遽導入された画期的な方法でした。この観測では、電離圏下部の VLF波の出口直下において 地表-電離圏キャビティー理論で予想される値よりも1桁大きい100kmあたり7dBという、減衰率になっていることが明らかにされました。
その後、このような稠密な観測網で地上のVLF波を観測した例を他に知りません。最新の技術を用いれば、磁場や電場のセンサーも含めて観測システムを小型化、低消費電力化し、A/D変換後のデジタルデータをインターネットを介して収集することが可能です。そのような先進技術を導入して観測を実施すれば、電離圏下部のVLF波の出口の構造やVLF波のダクト伝搬について、さらに新しい研究の展開が見込まれるように思われます。

現地で観測体制を立ち上げる 際には、ロバーバル-南極サイプル基地間で VLF波動の先端研究を行っていたスタンフォード大学のメンバーと打ち合わせを行いました。この写真は、観測点に向かう車の中で 撮られたものです。左側に 鶴田先生、右側にカーペンター博士がこちらを向いて座っておられます

当初は現地の民家の地下を借りて、そこを作業場としまし た。写真の右側に鶴田先生、 左側に私が写っています。絨毯の上に地図を広げて観測点に見立てたキャラメルを並べ、候補地について検討を行っているところです。
転換点
北海道情報大学 宇宙情報センター
渡部重十(わたなべしげと)
宇宙科学研究所で「あけぼの衛星」の動作試験を行っていたときに,鶴田先生から「私の部屋に来てください」と電話がありました。研究室に伺うと,そこには Brian Whalenさんと Andrew Yauさんがいました。お二人を紹介した後に,鶴田先生は「カナダの研究所に行ってみませんか?」とおっしゃいました。鶴田先生はご存知のはずでしたが,私は「NASAのゴダードに行くことになっています」と返事をしました。Whalenさんは満面の笑顔で「NASAよりもカナダの研究所のほうが様々な研究ができる。長期間滞在して構わない。」と強烈なお誘いでした。鶴田先生もニコニコしながら「その方がいいよ」と言っているような表情でした。
3人に囲まれた私は NOとは言えませんでした。NASAゴダードを断りカナダのヘルツベルグ宇宙物理学研究所に行くことをその場で決めました。この出来事は私の研究にとって非常に大きな転換点でした。帰国後も研究を継続す るために様々なサポートを鶴田先生からいただきました。火星探査機「のぞみ」 に搭載した分光器のグレーティング開発で何度もトラブルに見舞われたときに,「次も失敗したら探査機には搭載しない」と強く言われました。しかし,開発の予算を追加していただいたおかげで分光器は完成しました。火星探査機「のぞ み」の運用の最後まで観測を続けることで,いくつかの論文を発表することができました。私にはとても真似ができない素晴らしい指導者でした。
鶴田先生との思い出
名古屋大学
宇宙地球環境研究所
平原聖文(ひらはらまさぶみ)
鶴田先生との思い出についてこんなに早く振り返ることになるとはとても信じられない気持ちです。私が大学院生だった期間のほとんどを鶴田研究室のすぐお隣で過ごし、大学に勤務し始めた後も節目節目で鶴田先生を始めとする鶴田研究室 の皆様からご教示いただけたという経験は、現在に至る私自身の研究活動におけ る大変貴重な思想的・技術的な礎になっています。
私が、駒場と相模原で機能分割状態にあった旧・文部省宇宙科学研究所に毎日通学し始めたのは 1987年の秋でした。その約 1 年前から日本初の深宇宙探査機 「さきがけ」を駒場で運用する機会も何度かありましたが、研究セミナーに参加させていただき始めてから鶴田先生に間近でお会いしました。物腰柔らかで物静かな小柄な先生という印象で、これまでお会いした大学や研究所の先生方とは少し違った雰囲気を感じました。
宇宙研での最初の私の課題として、私を受け入れてくださった向井利典先生から、 博士論文を仕上げ終わったばかりの鶴田研・中村正人さんに電位・荷電粒子軌道 計算を教わり当時改良中のイオンビームラインに実装するビームエクスパンダー の効率化を図るように、と指示されました。中村さんは、鶴田先生や早川基先生 と一緒に取り組んで来られたロケット実験で、ブーメラン法による電場観測が初めて成功しその観測データで博士論文を書き上げた後、ドイツのマックスプランク研究所に留学する直前だったと記憶しています。
他の皆様からの寄稿の方がずっと正確で詳しいと思いますが、当時鶴田研究室では EXOS-D(あけぼの)計画や Geotail 計画に向けて探査衛星搭載用のダブルプローブ法とブーメラン法による電場観測器の開発を行っていたと思います。ですので、私自身が所属する向井研は粒子計測、鶴田研は電場計測、とその時は思い込んでいたのですが、実は鶴田先生は電場計測のみならず幅広く観測的・実験的 研究活動を展開されてきた研究者であることを後になって知りました。当時このことを十分に理解していたら、鶴田先生が Planet-B 計画と中性粒子分析器開発を 立ち上げられたときにあれほど不思議には思わなかったかも知れません。
鶴田先生が先導されて Planet-B計画が始動したとき、中性粒子分析器の開発も始められました。その頃には既に米国からの機器提供が前提で進められていて、東海岸と西海岸の2つの研究グループが候補でした。当時は宇宙機搭載用の中性粒 子分析器に関する開発技術は国内にはほとんどなかったと記憶しています。 Planet-B の開発が本格化しつつあり、しかも既に米国からの機器提供がほぼ決まっている状況で、重要な搭載用観測器の一つである中性粒子分析器を日本独自技術で開発し始めるというのは遅過ぎますし無駄な気がしたものでした。そのことを率直に向井利典先生にお聞きしたところ、日本でも同等の技術を有していることで対等に議論できる、海外機関が提供できなくなったとしても日本独力で対応しなければならない、とお教えいただき、探査衛星ミッションという大規模計画を主導するための思想的・精神的基盤の必要性を多少なりとも感じた気がしました。その時に新規に開発され始めた中性粒子分析器の原理は大変画期的なもので、 この日本独自発想・技術を継承することで今後の探査計画にも適用されるべきだと考えています。


Planet-B会議の後の 懇親会(宇宙研食堂) にて(左:鶴田先生、 右:Rickard Lundin 先生、中央:筆者、 恐らく1995年2月16日)
林幹治先生の退職記念パーティー
(東大松本楼) 2003年2月27日)
懐かしい写真を2枚
電気通信大学 名誉教授
柳澤正久(やなぎさわまさひさ)
アルバムやフィルムを捜したら鶴田先生の写っているものが何枚も出てきました。そのうちの2枚です。私が宇宙研にいたスマホもデジカメもない時代のものです。

正確な年は分かりませんが、昭和50年代中頃の駒場宇宙研です。桜が咲いていて、時計台は1時ちょっと前を示しています。右から、早川、町田、高橋、牧野、羽田、鶴田先生、渡部、鈴木の各氏(敬称略)と柳澤。右手後方にはキャッチボールをやっているらしい誰かさんも小さく写っています。実験の途中だったのでしょうか、鶴田先生はネクタイに作業着姿です。ネクタイはいつもしていたように思います。「桜がきれいだから写真撮りましょう」学生(院生)たちの提案に気軽に付き合ってくれました。

駒場45号館5階の研究室にて。窓の向こうは56号館です。写っている10 月カレンダーの1日が月曜日ですから昭和56年(1981)でしょう。奥にい るのは寺澤さん。窓際にはラインプリンターの出力用紙が積みあがっています。
鶴田先生は、コーヒーを飲みながら論文雑誌を読んでいるようです。タバコも好きでしたよね。カナダに観測に行かれた時は蚊やアブをよけるのに役立ったと か。地味にコツコツと研究している時が一番幸せ、そんな先生でした。
こうして写真を見ていると、鶴田先生をはじめとする先生方や仲間たちの話声やお姿が生き生きとよみがえってきます。鶴田先生、たくさんの素敵な思い出をありがとうございました。
In Memory of Professor Tsuruda
スウェーデン IRF 元所長
Rickard Lundin
IRF got its first official invitation from Japan in 1992 to join them with a mass analyzing instrument on their mission Nozomi to Mars. This was at a time when space missions to planet Mars were on the "must do" list, following the success of our first space plasma mission to Mars on Phobos-2, launched in 1988. Needless to say, we (IRF) answered with pleasure and committed to join the mission with a 3D ion mass analyzing instrument. I had the pleasure to meet with Tsuruda at the breadboard test of our instrument in October 1995. After that followed a number of trips to Japan and ISAS (staying at the comfortable ISAS-lodge) for further discussions with the "project manager" (Tsuruda).
I was also invited to the launch site, attending the successful launch of Nozomi 1998, the launch followed by the splendour of an "artificial" noctilucent cloud.
I will remember Professor Tsuruda in two ways, as an eminent scientist in space physics, but also as a friendly and generous leader.
(ISAS ニュース No.479 より転載)
Tsuruda-sensei’s Remarkable Scientific Career and Contributions Remembered
カルガリー大学教授
Andrew Yau
Professor Tsuruda was truly a pioneer, innovator, and trail blazer, for his lifelong pursuit and seminal works in the studies of the aurora, and Very-Low-Frequency (VLF) and chorus waves; and as the leading force for a generation of scientific satellites including GEOTAIL, Akebono and Nozomi.
In the 1970’s, he established a network of observing stations in northern Canada to study the aurora and VLF waves in collaborations with Canadian researchers: an important legacy in contemporary Japanese aurora research and international space science collaboration.
After his retirement, he travelled to northern Canada to continue his pursuit of the aurora: a poignant bookend to a remarkable career of scientific discoveries.
He will be missed internationally as a well-respected leader and a super-kind gentleman.
(ISAS ニュース No.479 より転載)

鶴田先生がカルガリー大学を訪問された際の一枚/1997年/左から Dr. Greg Garbe(NASA/MSFC) ご夫妻、鶴田先生、中谷 一郎先生、筆者
編集後記
鶴田先生が逝かれてから半年が経ちました。日々、鶴田先生を思う心はいや増すばかりです。
皆様の原稿をこのようにまとめさせていただきました。先生のお人柄が皆様の原稿からにじみ出てくるようです。執筆された皆様、ご協力ありがとうございました。

鶴田先生は EXOS-D(「あけぼの」)の衛星主任であられました。この写真は、「あけぼの」打上げ後、軌道が確定したとき内之浦のテレメータセンターで撮影され たものです。1989 年のことです。先生は EXOS-D が無事打ち上げられることを祈 念して禁煙しておられましたが、さる方に「成功おめでとうございます。この俺 のタバコは断れないよね。」と言われて断れず、一服吸った時、クラクラと来た、 あのような感覚は初めて、と述懐しておられました。
原稿の修正は必要最小限とし、平仄を整えることも、フォントを一致させる等にとどめました。
2021年夏 太陽系研究系一同 拝
鶴田浩一郎(つるだ こういちろう)
1937年、佐賀県生まれ。
東京大学大学院理学研究科地球物理専攻博士課程修了。専門は磁気圏地球物理学。1968年、前身の東京大学宇宙航空研究所に入所。オーロラ観測衛星「あけぼの」(1989年)、火星探査機「のぞみ」(1998年)の科学責任者を務める。2003年5月〜2005年9月宇宙科 学研究所所長
